かたかた、と意識を引き戻すように窓枠が鳴る。ルフレははっとして俯いていた顔を上げ、何度か緩慢に瞬きを繰り返した。
いや、窓枠が揺れたというより……窓の外で物音がした、と言ったほうが近いだろうか?
今日はそれほど風が強いようには感じられないし、何だろう……と気になって露台に続く窓の方へ視線を向ければ。
「ひ、と……?」
人だ。人がいる。黒い外套を羽織った濃い青髪の……背格好からしておそらく男性の姿が、窓の外の露台にいつの間にか現れていた。少年というよりは青年に近いように見えるその人物は、窓前にしゃがみ込んで何か作業をしようとしている。
フードを目深に被っているので容貌ははっきり確認できないものの、見知らぬ青年である。しきりと周囲を気にして、辺りを憚るような様子からして怪しいことこの上ない。
それなのに、何故か危機感や警戒心というものをこれっぽっちも感じないのだ。寝台の上で息を潜めたまま、心の中で首をひねる。
(どうしたんでしょう私……こんなに怪しそうな人なのに。まさか記憶を失くす前の知り合い、とか? でも、お客様なら玄関から入ってくるはずですし、ユーラを呼んだ方がいいですよね……?)
まだ寝台を離れて自由に動き回れないルフレのために、呼び鈴を鳴らす紐は横になっていても手を伸ばせばすぐ届く位置にある。
けれどもその些細な動作ひとつをぐずぐず躊躇って人影にじっと視線を据えていると、ふいに顔を上げたその人物とまともに視線がかち合った。
「あ……っ」
「――――!」
フードを払い落とした青年は、男性にしては大きめの瞳をさらに見開いて何かを口にしながら、室内へ入ってこようとしている。窓は内鍵があるので外から開かない造りのはずだが、呼び鈴の紐を引くべきかルフレがこの期に及んでも躊躇している間に、ぎいと軽く軋む音がして開放されてしまった。
「母さん!」
長身の人物は隙間から身を滑り込ませて中へ入ると、開口一番そんなことを言い放つ。
「え……?」
「良かったー! やっと会えました! サーリャさんにもソーニャさんにも手伝ってもらって本当に探したんですから! クロム様が自分の目が届かない場所に母さんを置いておくはずないと思って聖都やイーリス城ばっかり情報を集めてたのに、まさかこんな辺鄙な場所に秘密の別荘があるなんて、いくら直轄領だからって盲点でしたよ〜。でもよかった、思ってたよりひどい状況じゃないみたいで……って、母さん顔色が何だか――――もしかして怪我してるんですか?! だから逃げ出せないと思ってそんなに見張りがいないのかな……?」
「え、あ、あの……」
「と、とにかく動こうとしないで、じっとしててください。大丈夫ですか? 怪我は……右肩と、右足の付け根辺りかな。あんまり動けない感じです? そうすると今すぐ出ていくわけにはいかないですね。ここ二階ですから、僕が母さんを背負っていくとしても何も準備をしてないので見つからないか心配ですし。いったん戻って何か手立てを考えないと。あ、<マーク>は元気ですよ。母さんがいない所為かよく泣くようになっちゃいましたけど、ペレジアのサーリャさんの実家で引き続き預かってもらってますから心配しないで――――」
「ま、待って……! お願い、待ってください……っ」
辺りを憚ってか押さえた声音ながらも、怒涛のようにまくし立てられてルフレは混乱した。
明らかにこちらをよく知っていて、ルフレの方でも同じだという前提で勢いよく喋り続けられても話についていけない。
自分と同じかやや下くらいの年頃に見えるこの青年が何故『母さん』と呼びかけるのだろうとか、様付けされるくらいだからクロムはやはりそれなりの地位にある人なのだなとか、聞いたことのない人の名前が複数出てきたけれど誰だろうとか、見張りとか逃げるとか不穏な単語が出てきたのは聞き間違いだろうか……等々。情報量が、多過ぎる。
「……? 母さん?」
「あのっ、私、事故に遭った時の怪我が原因で記憶がなくて……あなたのことが分からないんです。あなたは、以前の私とどういう関係だったんですか? 母さん、って……私、あなたとそう変わらない年代だと思うんですけど……」
異性と部屋で二人きり、しかも上半身は起こしているといっても夜着を来て寝台の上という状況、それでもまだ湧いてこない警戒心。そんな自分に大いに戸惑う中どうにか口を挟むと、青年はぽかんと口を開けて固まってしまった。
それで、ようやくこの突然の闖入者を観察する余裕が多少出てくる。
(あ……この人の眼、よく見たらクロムさんと同じ色ですね……髪色も似てますし、もしかして、兄弟……には普通、様はつけないでしょうから、親戚……クロムさんのお家の分家の人、とか……それで以前の私と親しかった? だからいきなり部屋に入って来られても怖くなかったんでしょうか……? でも、だとしたって『母さん』はないですよね……私、いくらなんでもこんな大きな子供がいる年じゃないはず……)
「僕のこと、覚えて……ない、んですか……?」
「……ごめんなさい」
それまでの勢いが嘘のように萎れた声音で尋ねられても、ルフレは謝ることしかできなかった。
すると、あんなに豊かだった青年の表情がふと色合いを変える。クロムに似た深い青の瞳の奥に一瞬強く表れて、すぐ紗幕をさっと下ろしたように奥へ隠れてしまったもの。
それが何なのか確かめる前に、青年はがばりと頭を下げた。
「すみません、師匠!」
「え? え……??」
「えっと、僕決して不審人物とかではなくって、クロム様の紹介で師匠に魔術を習ってて、だから師匠のこと師匠って呼ばせてもらってたんですけど、師匠って僕の母さんに似てるんですよ。それである時、寝ぼけて師匠のこと母さん、って呼んで泣きついちゃって。そしたら師匠が二人きりの時なら母さんって呼んでも構わないって言ってくれたので、つい甘えちゃってたんです」
「え? ええ……? えっと……そう、なんですか?」
「はい! 窓から不法侵入してきた怪しい奴に、母さん、なんて呼ばれてびっくりしましたよね? すみません」
失敗失敗、と舌でも出しそうな茶目っ気のある仕草で顔の前で両手を合わせて謝られ何だか毒気を抜かれてしまう。正直無茶苦茶な言い訳だと思うのに、それ以上追求しようという気持ちにならない。
ただ、警戒心を与えない朗らかな様子に、妙に違和感があった。具体的にどこがどう、とははっきり言えないのだけれど……。
どうにも収まりが悪い気分でいると、青年は寝台の近くにあった椅子に腰掛けて、にこりと笑みを浮かべた。
「じゃあ、改めて自己紹介しますね。僕はマーク、さっきも言ったとおり師匠に魔術を教わってるあなたの弟子です」
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