(驚きました……まさか、クロムさんにあそこで会うなんて。もしかして、ずっと私のことを探してくれていたんでしょうか……? 何もお話できないまま置いてきてしまいましたけど……父さま、クロムさんに対してこう……怒っていた、ような……。大丈夫、でしょうか……)
車に乗り込もうとする間際、自分の名を呼ぶ切羽詰まった声が聞こえたと思ったら、休日にもかかわらず昨夜と同じワイシャツとスーツのズボンという格好で、クロムが走ってくるところだった。
ところがファウダーは、明らかにルフレに対するものだと分かる呼びかけに気付いたようなのに、動きを止めてしまったルフレを逆に車内へ急き立てた。……冷え冷えとした、そして触れれば冬場の強力な静電気のように弾き飛ばされそうな剣呑な空気を醸し出しながら。
おそらくルフレの反応で、駆け寄ってくるのが娘の結婚相手――けれど新婚のはずなのに、娘に浮かない顔をさせている男だと察したのだろう。
一方のクロムは何も知らない。今日、ルフレがファウダーに、長年密かに会いたいと願い続けていた父に対面できたのは、まったくの偶然だから知るはずがないのだ。この、双方の認識のギャップは何かまずいことを引き起こしそうな気がする。
後ろを振り返ってみたり、俯いて手を組み替えてみたりと落ち着きがないルフレを、インバースが呆れ気味に窘める。
「ファウダー社長は敵対した相手にはそりゃあ厳しいし、あんな外見だから誤解されやすいけどぉ、理不尽なことはしないわよ? さっきのカレ、あなたがそんなに心配するってことは何かやらかしたのぉ?」
「や、やらかしたといいますか……私がいけないんですけど、何というかその……」
「んもぅ、はっきりしないわね。そもそもカレ、あなたの何なの? 恋人?」
「いえ、あの……夫、です……」
「あら」
少し予想外の答えだったようで、ルームミラー越しに見えるインバースは虚を突かれたような様子で何度かまばたきを繰り返していた。まあ、それもそうだろうな、と思う。学生にしか見えないルフレが結婚しているとは、なかなか考えつかないだろう。
そんなに若いのにもう結婚してるのねえ、と妙にしみじみとした口調で呟いた彼女は、危なげないハンドルさばきで交差点を曲がると、器用に肩をすくめてみせた。
「ご愁傷さま。後で骨は拾ってあげなさい」
「さっきと仰ってることがぜんぜん違いますよね……?!」
「あらぁ、だって社長からしたらヒドイ話じゃない? 若かりし頃の想い人に操を立てて、私が色仕掛けしても落ちないくらい頑固に独身を貫いていたっていうのに、その人は亡くなっていて馬鹿な執事の所為で死に目にも会えなかったし、忘れ形見の娘がいたと思ったらその若さで既に人妻よぉ? そりゃあ処理落ちもするわよねぇ。ウチの娘に手を出すとはけしからん! って相手の男に食って掛かりたくなっても仕方がないと思うわぁ」
「……っ!」
縁談が云々と話していたのに、父は結婚していなかったのかとか、インバースと名乗ったこの女性が父に色仕掛けをしたとはどういうことだとか、色々気にはなったものの。
ルフレがつい過剰とも言える反応をしてしまったのは、軽口めいた『手を出す』という言葉の方だった。表情も身体も一気にこわばるのが自分でも分かり、インバースは目ざとくそれに気付いて片方の眉を持ち上げた。
「……あら、あなた……もしかして、カレにまだ何もされてないの?」
「———!!」
火がついたように真っ赤になったルフレを見て、父の秘書は返答を待つまでもなく色々と察したらしかった。
ふぅん、へぇえ、と小声でしきりに呟いているので、居た堪れなくなって俯いてしまう。
インバースが、大人の色香を漂わせた綺麗な女性なのもより引け目を感じさせた。
彼女のように美人で、男心をくすぐるようなスタイルの良さがあり、色気溢れる大人の女性だったなら。
クロムは結婚して初めての夜に、優しいキスだけで終わらせることはなかったかもしれない。
ルフレは母から『婚前交渉ダメ絶対』、という古風な教育を受けていたので、付き合っている時にそういう意味でクロムが触れてこないのは、まったく気にならなかったのだけれど。
夫婦になったのだから、キス以上のこともしたいと思うのはルフレだけで、クロムにとっては穏やかな愛情はあっても、自分は守ってやるべき対象でしかないのだろうか————。
「……なんだか色々ありそうねぇ。悩みがあるならお姉さんに吐き出しちゃえばぁ? 楽になるわよぉ」
さらに悄然として唇を噛み締めるルフレに、どこか懐かしさを感じる口調でインバースが言った。……どことなく、母に似ている。
もちろん彼女と母の外見は似ても似つかないけれど、母もよく、幼いルフレが学校で嫌なことがあったりして浮かない顔をしていると、声をかけてくれた。
そんな時の母の口調には、思わず何もかも打ち明けたくなる何かがあって、いつの間にか洗いざらい喋らされているのだ。
今のインバースの声にも、それと同じものを感じてつられたように顔を上げたルフレだったが、悪い人ではなさそうだとはいえ、今日が初対面。
夫婦間の問題を、初対面の相手へあけすけに話してもいいのか躊躇い、「でも……」と口ごもると、インバースは小さく苦笑して、手元でボタンを操作した。
そしてすぐ、後部座席と運転席の間に半透明の板のようなものがせり下がってくる。呆気に取られている間に、後部座席は一種の隔離空間に早変わり。
「独り言だと思えばいいんじゃなぁい? 壁に向かって話しかける感じで、もやもやを吐き出しちゃいなさいよ」
「は、はい……」
壁に向かって話すというのも、それはそれで危ない人ではないだろうか。
ちらりとそう思ったものの、却って自分たち夫婦のことを知らない第三者の方が、客観的な意見を聞けるかもしれないと思い直した。
それに、もうどうしたらいいか分からなくなっていたのだ。
言いにくいことを口にするときの癖である、唇を噛み締める仕草をまた無意識にしたルフレは、藁にもすがる気持ちでぽつぽつとこれまでのことを話し始めていた。
※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます