見知らぬ恋人 - 4/6

 ずれたショールを直し、ルフレをクッションや羽根枕の中にもう一度寄りかからせてくれると、クロムは手近にあった椅子を引き寄せてどかりと腰掛けた。一見ぞんざいな仕草なのに、それでも気品のようなものがにじみ出ているのは彼が貴族だから、なのだろうか。
「それにしても、寝台から落ちかけるなんて、何をしようとしていたんだ?」
「そ、それは……その
 至極もっともな疑問に、言葉に詰まる。まさか、あなたに会うのに身だしなみが気になったから手鏡を見ようとしていたんです、とは言えない。恥ずかしすぎる。
 伏目がちに盗み見ると、クロムは不思議そうな表情を浮かべてじっとこちらを見つめていた。そんな表情をしていると、精悍な顔立ちがまるで少年のように見える。
落ち着かない気分にさせられながら、どうにかうまい言い訳を……とルフレがひねり出したのは、自分でも到底及第点はあげられない出来だった。
……あ、あの、そうです! お、お腹が空いてしまって、夕食はまだかなあと……
「昨日は確か、微熱が下がらないから身体がだるくて、食が進まないと話していなかったか?」
「き、昨日は昨日、今日は今日ですよ? 今日は大分調子がよくて、腹筋百回くらいしても……
「いや、さすがにそれは駄目だろう……。というか、俺が許さん」
……そ、そうですね」
 苦しい言い訳だとは自覚していたが、早速突っ込まれてしまう。しどろもどろになって、どうやって切り抜けたものか思案する中、妙案を思いつく前にくしゃくしゃと髪をかき回された。
「それだけの口がきけるならまあ、大丈夫なんだろう。言いたくないなら、無理に言わなくてもいいさ」
 その沁み入るような声が、ルフレを見つめてくる包み込むような深い深い藍色の眼差しがひどく優しいから、上がりかけた抗議の声は喉の奥で消えてしまった。
頬が相変わらず熱い。どうかクロムが、顔が赤いのは熱の所為だと思ってくれればいい、とルフレが願ったところで遠慮がちに部屋の扉が叩かれた。
 クロムが入室を許可すると、ユーラが配膳用の台車を押して入ってくる。不思議なことに、彼女はルフレの前では多少ぎこちないながらも普通なのに、クロムの前ではまるで怯えているような様子を見せるのだ。
 屋敷の主人の前で粗相をしないか、緊張しているのだろうか。彼はそんなに怖い人ではないと思うのに。
 勿論、ルフレは今記憶がないから、普段のクロムは使用人に厳しいのかもしれない。でも、覚えていないけれど、彼はそんな人ではない気がするのだ。

(ただ、それならユーラがこういう態度を取るのはおかしいんですよね……?)

 考え込んでいる間に、クロムは二人分の食事を台車ごと受け取っていて、ユーラが一礼して退出していく。彼は小さめのスープ皿と匙を手に持つと、とろみの付いたスープを一口掬って――――
「ほら、口を開けろ」
「え? あの……クロムさん?」
 口元に差し出された湯気の立つ匙に、クロムの意図が掴めず、否、理解はしていたのだが信じられなくて、思わずぱちぱちと目を瞬く。
「昨日、随分食べづらそうだったからな。まだ、利き手が自由に動かせないんだろう? 食べさせてやる」
「ええっ?! い、いえ、いいです! 遠慮します! 自分で食べられますから、クロムさんもご自分のお食事を……っ」
 まさか、本当に食べさせてくれるつもりだとは。今度は頬どころか、耳まで熱くなってしまう。
 恋人同士なのだから、彼にしてみればこういった行為もして当然、なのだろうが。記憶がないままのルフレには抵抗があった。
 けれど真っ赤になって頭を振るルフレに、クロムは短く嘆息すると皿と匙をサイドテーブルに置いて、いきなり顔を寄せてきた。そのまま、睦言を口にするような声で、物騒な台詞が囁かれる。
「さっき腹が減っていると言ったよな? あまりつべこべ言うと、口移しで食べさせるぞ?」
……っ?! た、たべます……
 頬を朱に染めて観念したルフレに、クロムは愉しげにくつくつと喉の奥で笑う。子供をあやすようにルフレの頭を撫でてから、サイドテーブルに置いていたスープ皿を手に取り、匙を再び口元に宛てがった。目線でほら、と促される。
 非常に、この上もなく恥ずかしいが、これはもう大人しく従うしかない。覚悟を決めて、恐る恐る匙の中身を口に含んだ。
「旨いか?」
……はい」
 頷いたものの、正直味はよく分からない。朝食や昼食に食べるユーラの料理は、やっと短時間なら起き上がれるようになったばかりのルフレでも食べやすく工夫されており、家庭の温もりを感じるような優しい味付けで大抵完食してしまう。
 それを考えれば、今口にしているスープも同じ人間が作ったものなのだから美味しい筈なのだが、まじまじと見つめられながらではよく味わえなかった。
 だがクロムはルフレの答えに嬉しそうに微笑むと、二口目を差し出す。勿論、息を吹きかけて冷ましてからだ。
 ……ある意味、これは拷問ではないだろうか。頬が熱い。躊躇いながらも一口、また一口と少しずつスープを飲み干していく。
 その間ずっと、クロムは深い藍色の瞳に穏やかな光を浮かべルフレを見つめていた。愛おしむようなその光に胸まで熱くなって、ルフレはこの時間が早く終わって欲しいような、いつまでも続いて欲しいような、矛盾した気持ちに苛まれていた。

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