あいにくまだ寝台を離れられないルフレだが、やや離れた場所にある窓の外に、ちらちらと白いものが舞っているのが見える。
冬の最中にこの屋敷で目覚めてから半月、初めての降雪である。
朝食を運んできてくれた侍女のユーラの話では、深夜過ぎから降り始めて、今は外が辺り一面真っ白になっているらしい。
どうりで、暖炉に火が入っているはずなのに部屋の空気が冷たい訳だ。
「火を強くするのも限界がありますから、今日はお食事の時以外はお休みになっていてください。せっかく熱が下がってきたのに、またぶり返したらいけません」
まだ十代だと聞いているのに、重い病気の弟がいて苦労している所為か随分大人びているユーラは、薬を塗って包帯を替えたり、ルフレの夜着を着替えさせたりしてくれる間にきっぱりと言った。
ただまあ、ルフレが病人というか、大怪我を負って安静が必要な身であるのは確かである。ここ数日、晴れて暖かかったのでいくらか調子がよかった分、今朝からの骨にまでしみるような寒さが堪えていたから、ユーラの気遣いは有り難かった。
やっと少し起きていられる時間が増えて、クロムが持って来てくれた本を読めるようになったのにと、ルフレはユーラが朝食の配膳を終えた後いったん階下へ戻り、ひとりきりになった寝台の上で溜息を吐いた。
口の中でほろほろと崩れるくらい、野菜が柔らかく煮こまれたシチューは、消化の負担にならないようにだろう、薄めの味付けでも素材の旨味が出ていて相変わらず美味しい。
いつもなら食事の時間は、行動が制限されているルフレにとって一日の中で数少ない楽しみのひとつなのだが、今日はあまり食が進まなかった。
匙を口に運ぶ代わりに、はあ、とまた溜息をひとつ。それから窓の外の雪を恨めしげに眺めた。
「雪が積もっているなら……今日は来て、くれませんよね……」
うなだれるルフレの脳裏に浮かぶのは、濃い青髪の青年だ。恋人である彼のことさえ忘れてしまった薄情な女を責めることなく、いつも労り大切にしてくれる優しいひと。
彼――クロムは、昨日まで一日も欠かすことなく、ルフレに会いに来てくれた。
それがどんなに大変なことか、改めて考えてみるとよく分かる。
クロムが所有しているというこの屋敷は、彼が武官として勤めるイーリス城がある聖都からは、馬を走らせて小一時間だと聞く。
遠過ぎる、とまでは言わないが、決して近くもない。
武官は朝が早いそうで、なのに、勤めの後も屋敷まで連日馬を駆っていては休むに休めないだろう。
それでも、過去の記憶がなく自分の存在さえ不確かでともすれば気が塞いでしまうルフレにとって、恋人であるクロムとの語らいは何より心が慰められ、落ち着く時間だったから、つい甘えてしまっていた。
「でも、クロムさんはお仕事があるんですし、お家は聖都にあるんですし……毎日私のところにばかり来ているわけにもいかないでしょうし。それに、雪が積もっているのにここまで来るのも大変ですし……だから、えっと」
行儀が悪いと思いつつも、匙でシチューをぐるぐるかき回して、ルフレはどうにか沈む自分の心を宥めようと思いつくままをしゃべり続けた。
けれども言葉は虚しく、ひとりきりの部屋の中に溶けていく。
クロムが来ない。今日は、会えない。
そう思っただけで胸が塞がれたようになる。とても苦しい。食は、やはり一向に進みそうになかった。
*
雪は、陽が傾きかけても止む気配を見せない。
半分以上食事を残したルフレを、ユーラは随分心配してくれたが、正直に理由を話すのははばかられた。
自分の正確な年齢は覚えていないが、鏡を見る限り二十歳をいくつか超えているはずだ。
それなのに、恋人と一日顔を合わせないだけで、初めての恋に右往左往する十代の娘のように落ち込んでいると知られるのは恥ずかしい。
病を得ると、人恋しくなるというから、ルフレが弱気なのもまだ高熱で失われた体力が戻っていない所為かもしれない。
気を紛らわそうにも、食事の時間以外はずっと横になっているしかできないので、つい普段は努めて考えないようにしていることを考えてしまう。
……例えば、以前の自分とクロムは、公にできない関係だったのでは? といったことを。
(クロムさんの薬指……指輪の痕、みたいに見えました)
先日、何気なく目に止まったクロムの左手の薬指。その根本にうっすらと、綺麗な線状の痕があったのだ。
薬指だけだったので、剣を握った時に付いた、とは考えにくい。何か円状の物を指に嵌めていた痕だという方がしっくりくる。
クロムは武官だからなのか、彼の元々の性質なのか簡素な装いを好むようで、宝飾品を付けているところを見たことがない。
そんな彼が、痕が残るほど長く指に嵌める物。左手の薬指という場所。それに、ルフレの視線に気付いたクロムが、さり気なく左手を隠してしまったこと。
それらの情報から導き出される結論は――――。
(もしかして、本当は奥様がいらっしゃるんじゃないでしょうか……)
自分でした思考に、心臓を鷲掴みにされた心地がする。そのままきりきりと爪を立てられたように痛みを訴えるそこを持て余し、ルフレはどうしたらよいか分からないまま胸を押さえてきつく目を瞑った。
彼の立場なら、ルフレと出会う前に妻帯していてもおかしくはないし、クロムが既に結婚しているのだとすれば、色々なことに説明がつくのだ。
症状や怪我の経過を見るなら同じ人間がいいはずなのに、毎回違う医者が診察に来ること。
クロム以外、誰もルフレを尋ねて来る者がいないこと。
クロムに優しくされる度、愛おしくて堪らないという様子で触れられる度、本来は他の誰かのものであるべき彼の愛情を、掠め取っているような罪悪感が湧いてくること。
その罪悪感が胸を刺して、未だに彼からの口づけを受け入れられないこと。クロムと会えないと考えただけでこれだけ胸が苦しくなるのだから、記憶を失くす前の自分は本当に彼に恋焦がれていたのだろう。
同様にクロムも、ルフレに接する態度、熱のこもった眼差しからして、本当に自分を恋人として大切にしてくれていたのは間違いない。
けれどもし、許されない関係なのだとしたら。このまま、クロムに甘え続けていいのだろうか……。
自問自答し続けるルフレの耳が、その時微かな馬の嘶きを拾った気がした。
「……クロムさん?」
うつらうつらとしながら出口のない迷路に迷い込んでしまっていたルフレは、はっとして目を開く。気が付くと、窓の外は暗い夜に支配されていた。
いつの間にかユーラがランプに火を付けてくれたようで、室内は仄かに明るい。
傷が癒えきっていない右肩を庇いながら、ゆっくりと上半身を起こして耳を澄ませた。
クロムがこの屋敷へ来るときは、いつも決まって馬だ。だからもしかして、と期待で胸が膨らむ一方、彼に会いたいと思うあまりの空耳ではないかと恐れもする。
しばらく待ってみたが、同じ音はもう聞こえなかった。やはり空耳か、と落胆しかけたところで、今度は部屋に誰かが近づいて来る足音。
ユーラのものではない。だとすれば、もう『彼』しかいなかった。
「ルフレ」
ルフレが慌てて鏡を確認しようにも間に合わず、扉が開いたそこには外套を階下の使用人に預けてきたのか、軽装のクロムが立っていた。
精悍な顔立ちに浮かべた穏やかで優しい微笑は、昨日と変わらない。
「クロムさん! き、今日は雪なのに大丈夫だったんですか?」
「ん、まあな。フェリアの吹雪に比べたら、これくらい何でもないさ」
さっさと寝台の側までやって来て、手近な椅子に腰掛けたクロムは言葉の通り、本当に何でもなさそうな顔でそう言って、右手をひらひらと振ってみせた。
先程までは苦しくて苦しくて仕方がなかった心臓が、今度は別の意味で高鳴り、ふわふわとした落ち着かない気分にさせられる。
嬉しい。嬉しい。嬉しい。
今日は会えないかもしれないと思っていたところに、思いがけず彼の訪いを受けてルフレの心は浮足立った。
けれどそれを素直に喜ぶことは、さっきの推測が正しいとすればひどく身勝手なことのように思われて、ぼそぼそとこう返すしかできなかった。
「えっと、でもこんな天気が悪い日に無理して来ていただかなくても……。その、何かあったら大変、ですし」
ああ、違う。こんなことが言いたいんじゃない。クロムが悪天候を押して来てくれたのは、うぬぼれではなくルフレのためだ。
なのに、どうしてもっと他の言い方ができないのだろう。
案の定、そろそろと視線を持ち上げて様子を窺えば、クロムの笑顔は曇り、眉間には微かに皺が寄っていた。
「……迷惑だったか?」
「っ、い、いいえ! そんなことは」
「なら、笑ってくれ。俺はお前の笑顔が見たいんだ」
避ける間もなく伸ばされた大きな手が、頬を包み込む。雪の中を走ってきた所為か、少しひやりとしていた。
困ったような、怒ったような、不思議な表情をしたクロムは、何度か頬を撫ぜると、流れるような自然な動作で寝起きで乱れたルフレの髪を梳き、一房掬い取って口づけを落とした。
「……!」
「そのためなら、何だってする」
間近で囁かれた低い声に、熱のこもった優しい眼差しに、ルフレは泣きたいような気持ちになる。
本当は、好きでいてはいけない人なのかもしれない。こんな風に、優しくされる権利は自分にはないのかもしれない。
それでもおずおずと微笑んでみせたルフレに、とろけるような甘い笑みを返してくれたクロムと、もうしばらくこのまま過ごしていたい。そう、思ってしまうのだった。
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