生ぬるい風が頬を撫ぜていく。イーリスとは風のにおいも違っているようで、ささくれだった気分を鎮めるべく天幕の外に出たのはいいが、目的は果たせそうになかった。
結局あの後は、ガイアになんやかんやと言いくるめられ、誤解を招く態度を慎むよう約束させられてしまった。普段と少々様子が違う彼に気圧された形だが、納得はいっていなかった。
確かに、妻帯した自分が、妃ではない女性と親密な様子でいるのは褒められたことではないのかもしれない。
だがルフレは、ルフレだけは『違う』のだ。うまく言えないが、彼女は自分にとって特別で、妻を迎えたからといって世間で言う適切な距離を置きたくなかった。
他の女性、例えば幼馴染と言えるソワレや、妹の親友であるマリアベル、それ以外の相手なら、素直に忠告を聞き入れられると思うのに。
ルフレだけだ。彼女以外には、誰に対しても、こんな気持は抱かない。
その理由を、クロムはルフレと自分が半身であるからだとずっと思っていたのだけれど。
「……っと、まずい。そろそろ天幕に戻らないとな」
気が付くと、あてどなく陣地内を歩いている内に、日は既に傾きかけていた。軍議の前に心を落ち着かせたかったが、仕方がない。そろそろフレデリクが呼びに来る頃合いだろう。
胸の奥底に溜まった澱を払えぬまま、天幕に戻ろうと踵を返しかけて。耳に届いた微かな話し声にクロムはぴたりと動きを止めた。
風に乗って聞こえてきたのは、まさに今思い浮かべていた彼の半身、彼の軍師の柔らかな声だったからだ。
(ルフレ……? 誰かと、一緒なのか……?)
思わず点在する天幕の影に身を隠しながら、声の発生源を辿る。盗み聞きをするつもりはないし、やましいことがないのだから堂々と彼女を探せばいいのだが、あからさまに避けられたらと思うと身構えてしまう。
少しずつ、音を立てないように移動していく。この辺りは陣中でも外れの方のため、物資を保管する天幕ばかりで人気が少ない。もう少し行くと見張りの兵がいるものの、ひどく静かだ。
声の聞こえてくる方角を探れば、さほど時間を置かずにルフレは見つけられた。ただ、一緒にいる人物が問題だった。
クロムと同じ癖のある深い藍色の髪が目に飛び込んでくる。一振りしかない筈のファルシオンを同じく腰に佩いた男は、クロムより鍛えられ、引き締まった体躯を、やはり濃い青の衣装で包んでいた。袖がある上着は、腕の聖痕を隠す為だろう。
身に着けた仮面も、軍主と同じ顔を晒さないよう、用心してのことだと思われた。
未来から来た<クロム>は、さも当然のように、ルフレの隣を歩いている。かつては、クロムの為の場所だったその位置を。
気付かれないよう離れている所為か、会話の内容まではよく聞き取れない。しかし二人とも随分と親しげな様子だった。奇妙な感覚だ。
まるで、以前の自分とルフレを見ているようだった。
自分たちは深く信頼しあっていて、出会ってさほど時間は経っていないのに、まるでずっと前から共にいたように思えるほど、一緒に過ごすことが自然だった。
自分は決して饒舌ではなく、気の利いた会話ができる訳でもないが、それでも視線を交わし、彼女が微笑んでくれるだけで確かな絆が二人にはあるのだと信じられた。
それが、今はどうだ。
クロムは無意識の内に拳をきつく握り締めていた。自分への言伝はガイアに任せたくせに、あいつと話す時間はあるのかと、歯噛みしたい気持ちに襲われた。無性に、苛々する。
……すべてが終わった後で思い返せば。ここで、自分の天幕へ戻ればよかったのだ。いいや、戻るべきだった。
この後に続く光景を、見てはいけない。
けれどこの時のクロムはまだ、己の裡に巣食う感情も、何かを間違えていると囁き続ける声の示すところも何も理解していなかったから。
だから、まともに視界に収めてしまった。
彼女の、ルフレの笑み。相手のことを心から信頼しきって、すべて預け、何もかも委ねた、クロムだけのものだった筈の微笑みを。
クロムは久しく目にしていないその笑みを、ルフレは<クロム>に、自分であって、決して自分そのものではない男に向けていた。
しかも、それだけではない。
ガイアが『妙に女っぽくなった』と評していたことに影響されたのか、やけに艶を帯びて見える表情は。
色恋沙汰に疎いと言われるクロムにすら分かるほど、恋する男に向けるような極上の甘さを含んでいた。クロムが知らなかった彼女の『女』の顔。
(……っ、気持ち、悪い……)
頭が、割れるように痛かった。握り締めていた手を口元へ当て、ずるずると身を隠している天幕の外側の支柱に寄りかかる。
胸がむかむかとして吐きそうだ。いつもお前は間違えたと囁く声が、これまでで一番強くなる。
もう手遅れだと声は言うが、何が手遅れなのだろう。
自分は、ルフレと恋人関係になりたかった訳ではない筈だ。第一、彼女を女として見ることは、身体で取り入ったのだと見当違いな批判をする貴族たちに格好の口実を与えるだけではないか。
なのに、クロムは今かつてない衝撃を受けている。女としての彼女の一面を見て、声が囁く『間違い』が指すものが、薄ぼんやりとだが分かりかけたような気がする。
けれど吐き気すら催す頭痛にうまく考えられない。
鎖骨にあった朱痕を見せつけるようにした男に感じたどす黒い感情が、全身を隅々まで支配して、血液すら沸騰しそうだ。
足が地面に張り付いたように動かない。ルフレの姿がゆっくり遠ざかっていく。一度だけ男が振り返り、笑ったように見えたのは、錯覚だろうか。
そのまま、軍議の時間になっても自分の天幕へ戻って来ない主君をフレデリクが探しに来るまで、クロムはその場でじっと蹲り、自分を苛む不可解な感情と気持ち悪さとに耐え続けていた。
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