囁くもの - 2/5

 羊皮紙に綴られた、几帳面な文字。書き手の生真面目な人となりを表す書体で書かれているのは、斥候に探らせた進軍予定地周辺の地理や、帝国軍の動向だ。

 イーリス・フェリア連合軍の軍主であるクロムにとって、頭に入れておかなくてはならない情報なのだが、椅子に腰掛け文字を追っても目が滑るばかりで少しも集中できない。

 しばらく足を組んだ上に報告書を載せ、天幕の中で広げた折りたたみ式の机の端を、指先で苛立ちを滲ませながら叩いていたクロムだったが、終いには読み進めるのを諦め、ばさりと乱雑に書類を放り出してしまった。

 椅子の背もたれに身体を預け右手で髪を掻き回す。以前ならば、一日の大半を、それこそ四六時中と言っていいほどの時間を共に過ごしていた『彼女』が、耳に快い声で『もう、クロムさん。髪の毛がぐしゃぐしゃになっちゃいますよ』と、呆れを滲ませつつ笑って窘めてくれただろうが。

 彼女は、今隣にはいない。いや……今どころか、ここのところずっとだ。フェリアの両王も交えた軍議での事務的な会話以外、ほとんどまともに言葉を交わしていない。

「くそっ! 何なんだ、一体……

 ふいに暴力的な衝動に襲われ、クロムは机の脚を蹴飛ばし毒づく。髪をかき回していた手を額に当て、目を閉じた。視界が閉ざされると、自分を悩ませているあの声がより一層鮮明に脳裏で響く気がする。

 これまでも何かを間違えているという感覚に襲われることはあったものの、それは朝靄にいっとき包まれるようなもので、少しすれば消えてしまっていた。

 なのに近頃、その違和感は薄れるどころかますます強固に存在を主張し始めたのだ。

 違和感の出所は掴めていないが、お前は間違えていると囁く声が大きくなり始めた時期だけははっきりしていた。

 未来から来た自分――もう一人の『クロム』が現れた頃からだ。

 男は自分と同じ存在だが、決定的に違う面があった。クロムが直面している帝国との戦を収めた後、長く聖王位にあった為、齢を重ねているというだけではなく。

 そう、男とクロムの最も大きな相違点は、自分が半身と頼むルフレのことを、彼は結婚の約束までした恋人だと言ったのだ。

 その言葉通り、初めてクロムたちの前に姿を見せた時、男は窮地に陥ったルフレを間一髪のところで救ってから、もう離さないとでも言うかのようにきつく抱き締めていた。

 今でも、その時のことを思うと胸が悪くなる。やはり、原因は分からないのだが。

 何にせよ、男が今のクロムと違う選択をしていたことは、クロムにある種の混乱と衝撃をもたらした。もう一人の自分とは異なり、クロムとルフレは恋人同士ではない。

 それだけではなく、クロムはルフレではない女性をペレジア戦後すぐに妻に迎え、子供まで儲けている。聖王家直系の人間がもう自分と妹のリズしかいない以上、神剣を扱い得る血を残し民を安心させる為には、聖王代理の婚姻と世継ぎの誕生が急務だったのだ。

 もちろん嫌々結婚したのではなく、すべて祖国に必要だと納得してのことである。妃候補の選定は迅速に行われ、選び出された令嬢たちの中から伴侶を決めることに何の疑問も抱かなかった。

 クロムの中で婚姻は王族が当然果たすべき義務であり、その義務の相手として、ルフレを思い浮かべたことは一度もない。彼女は自分にとってそんな存在ではなかった。彼女は……彼女は、そんな義務だとか損得で割り切れる相手ではない。何者にも代え難い『半身』である。

 だからこそ未来の自分が、多少年齢による差異はあれど、同じ顔、同じ声で、愛おしくて堪らないようにルフレを見つめ、優しく名を呼ぶ様に心がかき乱された。 

 彼女は、クロムの軍師だ。未来の自分が愛したという『ルフレ』とは違う。それなのにまるで彼女のことも恋人のように扱おうとする男を、忌々しいとさえ思ってしまう。

 姉を死に追いやったギャンレルに対するのとはまた異なる、激しくも昏い感情。クロムは、ついぞ経験したことのない自分の心の動きに戸惑いを隠せないでいた。

 ――――随分過保護なことだな、聖王代理。お前は彼女の男関係にまで口を挟むのか?

 思い返したくもないのに、意識が勝手に男の嘲るような口調から、勝ち誇った笑みまで克明に記憶から蘇らせる。

 同じく、その時ルフレの天幕から出て来た男の、乱れた襟元から覗いた朱い痕も。それが示す意味を考えようとする思考を拒絶して、もう一度机の脚を蹴りかけると、天幕の入口近くで物音がした。

……っ、ルフレ?!」

「残念でした、俺だよクロム」

 椅子からずり落ちそうになる勢いで振り向くと、期待していた軽やかな、クロムの心を不思議と落ち着かせてくれる声ではなく、飄々とした男の声と共に、ぬっと羊皮紙の束が突き出された。

 視界に映るのは見慣れた軍師服ではなく、やはりこちらも見慣れてはいるが、別に嬉しくも何ともない隠密行動に適した地味な薄灰色の上下。顔を上げれば予想に違いなく、元盗賊で、今では斥候を主に努めるガイアが片手で飴の包み紙を弄びながら立っていた。

…………何だ、お前かガイア」

「へーへー。お探しの方でなくて悪ぅございましたね聖王陛下。軍師殿は多忙な身。代わりに私めが使者を仰せつかりましたがご不満でしたか?」

「そのしゃべり方はやめてくれ。背中が痒くなる」

 にやりと人の悪い笑みを浮かべ、へりくだって見せたガイアに顔をしかめ、クロムは立ち上がった。用件が聞くまでもなく分かったからである。

 イーリス、フェリア、どちらの国の人間にとっても未知の地である東の大陸を敵を避けつつ進むのは、帝国に抗戦し続け、クロムたちの軍に加わったソンシン王女サイリの案内があってもなかなか厄介だった。

 斥候の果たす役割は当然大きくなり、無駄口を叩きに来られる余裕はない。

 差し出された羊皮紙の束を受け取り、軽く目を通していくと先ほど放り出した報告書の続きらしかった。慣れ親しんだ、同じ綺麗な文字が踊る。

「ああ、それと俺らの今日の偵察の結果、進軍行路を少し北へずらすかもしれねえとさ。最後の辺り、ルフレが考えた新しい行路な。今晩の軍議で話し合いたいから、全部読んでおいてくれって言ってたぜ」

「それなら、何故ルフレが直接俺のところに言いに来ない? その方が早いだろう」

 ぱらぱらと新しい報告書をめくっている最中に付け足された伝言に、眉間の皺が深まるのを自覚する。

 ルフレに避けられているというクロムの認識が、またひとつ深まったからだ。

 よくよく考えてみると、帝国軍の襲撃から――いや、それよりも前からだろうか?――ルフレと二人で話した記憶がまったくない。

 以前、ペレジアとの戦の間はどちらかの天幕で夜通し語り合うこともざらだったし、彼女の側は居心地がよく、自然と二人でいる時間が多かったのに、今ではルフレと顔を合わせている時間の方が少ないのだ。

 それは、未来から来た<クロム>が、ルフレを守るという宣言通り影のように彼女から離れないことが多いことも原因のひとつだろうが。

 何より、彼女自身がクロムと二人きりになることを忌避しているように思えてならないのだ。

 実際、以前はルフレが自分で直接伝えに来てくれていた様々な事柄も、伝令や、今のようにガイアやフレデリクから聞くといった具合で、クロムを無性に苛立たせていた。

「おいおいおい、何だよその顔。俺の話聞いてなかったのか? あいつは、他人に任せられない仕事が山積みなんだよ。軍師の本領は、むしろ戦が始まる前にあるからな。誰かに頼めるものは任せねえと、身体が保たないだろ」

「それはそうだが……。人手の少なかった以前の方が、よほど忙しかった筈だろう。軍の規模が大きくなったと言ってもだな……

 言いながら、表情が険しくなっていくのが自分でも分かった。そんなクロムを見て、ガイアは一瞬何かを探るように目を眇め、その後呆れた表情を作って大げさに肩をすくめる。

「お前なあ、結婚してもう何年だ? 二年以上は経つだろう。そろそろルフレ離れしろよ、嫁さんが可哀想じゃねえか」

「俺を親離れできない子供みたいに言うな」

「同じようなもんだろ。それに、な」

 そこでガイアは言葉を切り、声を潜めた。それまでの人を喰ったような、軽い口調から一転、真剣味を帯びた口ぶりで囁くように言う。

「お前、あまり人目のあるところでそんな態度取るなよ。お偉方が寄越した兵士の中には、ルフレのことをお前の女だと思ってる奴らがまだまだ多いんだ。進んで誤解を深めるような真似はやめておけ」

「なっ……?! そんなこと、あるわけがないだろう!」

 始めは言われたことの意味を取りかねていたが、理解した途端、クロムはガイアの襟首を掴んで詰め寄った。

 ガイアの言うお偉方とは、ペレジア戦に出兵しなかった一部の貴族たちだ。彼らは戦功をあげられなかったことで、宮中での影響力が低下するのを恐れたらしく、今回の出征に当たっては、我先にと私兵や物資を提供することを申し出てきた。

 魂胆は見え透いていたが、兵はひとりでも多い方がいいということで受け入れた経緯がある。

 しかし彼らが、ルフレのことをそのように見ていたとは。これまでも何度かあった戦闘で彼女の采配を見ている筈なのに、今でも認識は改まっていないのか。

 気色ばむクロムを宥めるように肩を軽く叩き、ガイアは続けた。

「だーかーら。噂を助長させるなつってんだよ。ただでさえあいつ、最近妙に女っぽくなってるんだ。奴ら話を大きくする天才だからな。おしゃべり雀は、何も女ばかりじゃない。気を付けないと、『陛下の軍師殿へのご寵愛はますます深く……』なんて領主への手紙に書かれちまうぜ?」

 声色こそ茶化しているようなものに変わったが、眼差しは真剣そのものだ。強い視線に呑まれたようにクロムは押し黙る。

 左手の薬指に嵌った指輪が、鈍い光を放った気がした。

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