失楽園 - 5/7

 
 
 水面下で蠢く貴族たちの様々な思惑を孕み、一見磐石なようでいてその実いつ爆発するともしれない火種を抱えた、危うい聖王クロムの治世が瓦解したのは、王がはっきりと後継を定めぬまま歳月が過ぎ、見えぬ火花を散らす派閥間の緊張が最高潮に達しようとしていたある年の冬だった。
 深夜近くの出火。城の奥向きで突如燃え上がった炎は幸いすぐ消し止められ、王族を始めとした住人の避難も迅速に進められたため、死傷者はほとんど出なかった。
 ただ唯一、王のあまりの寵愛の深さ故に、奥向きの一室で長年軟禁されていた寵妃ルフレだけが物言わぬ骸として見つかった。
 彼女の命を奪った死神は炎や煙ではなく、ひとりの女の忠愛と積もりに積もった宿意。
 王の寵を失って久しい正妃の筆頭侍女——正妃の乳姉妹で、輿入れの際多くを望まなかった正妃が強く帯同を希望したという女が下手人だった。
 仕える主から夫を奪い、主の愛娘の王位継承さえ危ぶまれる状況に追い込んだ寵妃への恨みを、長年募らせた結果だと供述し——後の調査で、彼女が抱える怨嗟に目をつけたとある貴族が裏で糸を引いていたと判明するが、真相が明らかになる頃にはかなりの時間が経っていた——、収監された後も寵妃を悪しき様に罵り続けた。
 ただ、事態の調査と混乱の収拾を図ったのは聖王ではなく、王の第一の側近たる騎士団長である。
 愛しい女の変わり果てた姿と対面した聖王は、彼女が手に握り締めていた青い耳飾りを見て自失し、その側を離れようとしなかったからだ。
 そして亡骸と、古びた青い石の耳飾りを抱え、うつろな声で女の名を呼び続けた。
 その年の冬は穏やかな気候に恵まれたイーリスでは珍しく、日中でさえ凍り付くように寒かったが、腐敗していく亡骸をそのままにはしておけない。
 しかし、亡骸から引き離そうとすると手がつけられないほど暴れた。
 王の幼少期から仕えた騎士団長、神剣と王位の次代の継承者と目されている第一王女、今は亡骸となった寵妃が産んだ王子たち。誰の言葉も王には届かなかった。
 ただ唯一、成長するに従い母親と瓜二つになりつつあった末姫だけは例外で、姫の涙ながらの説得でようやく王が埋葬に同意した頃には、亡骸は随分酷い状態になっていた。
 皆が思わず目を背けるありさまに、だが王は頓着せず、手ずから血で汚れた装束を新しいものに替えてやり、抱き上げて白い花を敷き詰めた棺の中に横たえ、冷たい唇に、その冷たさが自分の心臓をも凍りつかせてくれまいか、と期待するように口づけた。
 そしてひっそり執り行われた葬儀が終わると、今度は日がな一日棺の側から離れず、青い耳飾りを光を失った瞳で見つめるばかりだった。
 その姿は、長年に渡り争い続けた隣国との戦を勝利に導き、東大陸の赤き覇王も邪竜さえも打倒した偉大な英雄のものではなかった。
 いびつな絆の荊で己のもとに縛り付けていた半身に愛されていたのだと知り、だがそのことを知ったときには既に彼女を喪っていた王は、もはや死人同然だった。
 城内は荒れた。
 心を壊した王を廃位すべきだという声が上がり、しかし誰を次代の王とすべきかで臣下たちの意見は折り合わなかった。
 聖痕を持ち、神剣を扱う資格を示し、王と正妃の間の唯一の子、王の第一子である王女<ルキナ>が当然即位すべきだという意見は、今回の事件を企てたのが母である正妃の筆頭侍女だったことを声高に責め立てる一派に阻まれた。
 一方で、長年王の寵愛を受けた妾妃が産んだ王子たちの長兄を、という意見は、今後王権争いを招かないためにも第一子である正妃の子が継ぐべきとする一派と、寵妃――かつて王の軍師だった女が、ペレジア先王の娘だったことを取り沙汰して騒ぐ一派が強固に反対した。
 膠着する状況は、だが長く続かなかった。
 絶対的な存在であり、精神的支柱でもあった偉大な聖王が揺らいだことで、城の機能が半ば麻痺したようになっていた隙を突いた人間がいたのだ。
 嫡子である王女<ルキナ>の対抗馬として挙げられていた王子<マーク>が、突如姉姫と、姉姫を支持する一派を捕らえたのである。周到なことに、父王には後継者に自分を指名するという念書まで書かせていた。
 あまりに鮮やかな手並みだった。どれほど前から準備していたものか、捕らえた人間たちの弱みを正確に握っていた王子は、それらを一切の躊躇いなく活用し、それでも従わぬ者は容赦なく処断した。
 幼少時から人懐っこく、常に笑みを浮かべていた明朗な王子のものとも思えぬ所業に、人々は戦慄した。 
 
 
 

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