「……薔薇、ですか?」
心を不安で騒がせる重苦しいものを扱いかねていても、時間は変わらず過ぎていく。
朝食後、いつもの通りほどよく室内が暖まったところで、包帯の交換と薬を塗布するかたわら身体や髪を拭いてもらっていたルフレは、とりとめのない雑談の中で侍女のユーラが出した話題にゆっくりと睫毛を瞬かせた。
「はい。今は冬なので殺風景ですが、このお屋敷の周りは初夏になると一斉に薔薇が咲いて、それは見事だそうですよ。外壁にも蔓薔薇を沿わせているので、まるでお屋敷全体が薔薇に埋もれているように見えると聞きました」
「そうなんですね……薔薇が咲いたら、この部屋の窓からも見えますか?」
残念ながら寝台の位置がやや窓から離れているため、窓枠の中の絵のような空を眺めることはできても、地上に近い場所の様子は見られない。
それでも、容態が安定してもっと体力が戻れば少しずつ歩く訓練をして……そうしたら室内を歩き回るくらいはできるようになるはず。
そこまで辿り着くのに何か目標があった方が張り合いが出るだろうと考えて尋ねれば、「もちろん。こちらのお部屋はご当主様のものと並んで、眺めが素晴らしいですからよく見えますよ」とにこやかに返された。
ほんの少しだが気分が上向いた気がして、仄かな笑みが口元に浮かぶのを感じる。……朝から憂い顔だったルフレを気遣ってくれたのだろうと思えば、自然と感謝の気持が湧き上がった。
そうこうしている内に、ユーラは手慣れた様子で傷口を避けて身体や髪を拭き終わり、薬を塗り始める。
暖炉で室内の空気が温められているとはいえ、季節はまだ冬。身体を冷やさないようにとの配慮だろう、この時ユーラはこちらの気を紛らわせうように他愛のない話をしてくれながら、てきぱきと無駄なく動く。
崖から馬車が落ちた際、身体の右側を強く打ち付けたようで、重い怪我はそちら側に集中していた。
特に右肩と、右の腰回りから下肢にかけてが酷く、事故後に意識が戻ってひと月以上経っても膿んでじくじくと傷む。そこへ丁寧に、けれど手早く薬を塗り込まれ、傷口を保護する包帯も新しいものに替えられた。
(薬草のつんとするにおいにはもう慣れましたけど、クロムさんがいる時はちょっと嫌ですよね……)
クロムは、まだ口づけを躊躇うルフレを、優しく抱擁してくれることがよくある。恋人に触れられるのに薬臭かったら、女性として色々残念である。怪我人とはいえ、女心はそれで納得できないくらい繊細なのだ。
ただ、この軟膏は時間が経つとにおいが飛び、ほとんど残らない。クロムが来るのは決まって日が暮れた後だから、実際はそこまで気にしなくてもいいのだけれど。
「あら……?」
下着の次に夜着を身に着けようとしたところで、誰かが階段を上がってくる足音を耳が捉えた。この部屋は階段から近く、日中でも屋敷内が静かなので意識していなくても聞こえるのだ。
もっとも、二階にはユーラとクロム、それからたまに来訪する医者しか来ないから、さほど気にならないのだが……。
「ユーラ、今日はお医者様がいらっしゃる日でしたか?」
「いいえ……その場合は事前に執事のロバート様から知らされますが、今日は特に何も……」
ルフレに夜着を着せてくれようとしていたユーラと二人、顔を見合わせて首をひねる。足音からしてクロムのもののように思えるが、日中は武官として出仕している彼が、こんな日が高い内に屋敷まで来られるはずがないし……と、困惑で動きが止まっていることに気付いてはっとする。
来客が誰にせよ、上半身がほぼ裸に近い格好では出迎えられない。とりあえずユーラに応対に出てもらって、申し訳ないけれど廊下で少し待ってもらおう。
口に出さずともユーラは心得たもので、夜着をきちんと着付けるのをいったん中断し、身体が冷えないようルフレにショールを手早く羽織らせ、足音の主が辿り着く前にと足早に部屋の外へ出て行った。
ワンピース型の夜着に片側の袖だけ通した中途半端な状態で、ルフレは居心地悪くショールを胸の前でかき合せる。
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