幸福がひび割れ始めた夜 - 6/7

 今にも雨が降り出しそうな雨雲のように、拭いきれない焦燥感と憂慮を抱えたまま時間が過ぎていく中で、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 何かにそっと意識を揺り動かされた気がして目が覚め、ゆっくり瞼を持ち上げると、室内は薄暗かった。耳に届く微かな音は暖炉の燃えさしが燻っているものだろうか。明かりらしい明かりは窓辺に差し込む月の光くらいのものだ。
 普段なら、日没が近付くと天井や壁に据えられた照明にユーラが火を灯してくれているはずだが、もしかしてルフレがすっかり眠り込んでしまったから気を使ってくれたのだろうか。

(今、何時なんでしょう……。クロムさん、帰ってしまったんじゃ……)

 毎日、武官としての城勤めが忙しいクロムが聖都から離れたこの屋敷に来るのは、日没後と決まっている。正確な時間は分からないものの、これだけ暗ければ日が暮れてからだいぶ経ったに違いない。もし眠るルフレを起こさないよう、既に帰路についてしまっていたらどうしよう。
 そう考えて、一気に意識がはっきりした。ユーラを呼ぶために呼び鈴を鳴らそうと、窓の方へ向いていた視線をぐるりと反対側――部屋の入口側にあるナイトテーブルの辺りに向けたところで、薄暗がりの中に浮かび上がった人影に、呼吸が止まりそうになる。
「——っ?! あ、クロムさん……?」
 目を凝らせば、枕元で椅子に腰掛け無言のままルフレを見つめていたのはクロムだった。夜空のような濃紺の髪が今は薄闇に半ば同化していても、日がな一日その人のことばかり考えて、想い焦がれる相手を見間違えるはずがない。
 寝起きでぼんやりしていた所為なのか、まったく気配を感じなかったから驚いてしまったけれど、まさに思い浮かべていた恋人の姿に、瞬間的な緊張がゆっくりほどけ、ほう、と息を吐く。
「び、びっくりしました……。すみません、私寝てしまっていて……起こしてくださればよかったのに」
「……いや。……ぐっすり寝ていたから、起こすのが忍びなくてな」
 身体が休むように訴えてるんだから、横になっていた方がいいと、囁く柔らかな声音に混ざる笑みの気配。いつも通りのはずなのに、そこに引っ掛かりを感じてルフレは目を瞬いた。
 
(表情がよく見えない所為、でしょうか……? 何だか、クロムさん……)
 
 クロムは、いつも優しい。
 けれどその優しさの奥に、ちょっとした仕草や表情、声色などから時折張り詰めたものを感じることがあった。
 これまでは本当にうっすらとした、意識を向けるとすぐ消えてしまう、気の所為かと思ってしまうようなものだったし、彼がそのような様子を見せる心当たりもなかったから、違和感を抱きながらも頭の片隅に仕舞い込んでいた。
 それは有り体に言うならば、己の出した命が回り回って半身に死線をさまよう大怪我を負わせたことに対する強い罪悪感、自分たちが恋人同士だという嘘でもたらされた薄氷を踏むように危うい、幸福な時間が、ルフレが記憶を取り戻すことで終わりを迎えることへの恐れ、真実を告げるべきだという理性の声に糾弾された心が訴える憂苦、ありとあらゆる煩悶がクロムの中で綯い交ぜになり、強固な自己抑制で押し隠していた隙間から僅かに顔を覗かせたのを、敏感にルフレが感じ取っていたのだった。
 記憶を失ってもなお、想い人であり、無二の半身である男の様子を常に注視していたルフレだからこそ気付けた、本当に微かな違和感が、今夜こうも無視できぬ程度になったのは理由があるのだが……クロムから秘密の気配を感じてはいても、真実を知りようもないルフレが答えに辿り着くのは無理な話である。
 気遣わしげに眉をひそめ、もっとよく表情を見たいと目を凝らすルフレの寝乱れた髪に、優しくクロムの手が触れた。
 無言のまま、大きな手は数度行ったり来たりを繰り返している。髪を整えてくれているのだ。
 そういえば、どれくらいの間寝顔を見られていたのだろう。かあっと頬が熱を持つのを感じ身動ぎすると、身を起こそうとしていると勘違いされたのか、押し止めるように目元を手で覆われる。
 僅かに寝台まで届いていた月明かりも遮られ、視界は闇一色になった。
「無理に起きようとしなくていい。まだ本調子じゃないんだろう。……晩課まであと一刻くらいだと思うが、何か食べられそうか?」
「……あ……もうそんな時間なんですね。えっと……今日は……」
 濃くなった宵闇の隙間から声のする方へ目を遣りつつ、ルフレは言葉半ばで言い淀んだ。
 この屋敷は周囲の町や村落から離れた場所にあるようで、通常人々が時間を知る教会の鐘は聞こえてこない。代わりに大層高価で、貴族でもごく限られた者しか所有できないという柱時計が一階にあって、教会が鳴らす鐘と同じく一時間おきに鳴るその音で使用人たちは時刻を認識するとユーラが言っていた。
 ルフレの部屋まではあまり届かないのだが、確かにぼぉんぼぉん、と長く重たく響く、鐘の音色とは似て非なる音が時々聞こえる。
 晩課の鐘は一般的に就寝の合図だ。クロムはその時間を出立の目安と決めているらしい。夕食後薬湯を飲み、穏やかに語らっていると、ふと耳を澄ませる仕草をして間もなく、後ろ髪を引かれている様子で帰り支度を始める。そうして聖都へ戻るクロムを、行かないでと縋ってしまいそうになるのを堪えて寝台の上から見送るのがいつもの日課だ。
 その時間が迫っているなら、今夜はもうこれ以上、彼を引き止めていてはいけない。そう頭では理解していても、遅い夕食を済ませるまで側にいてほしいと請うたなら、優しい彼は聖都へ――もしかしたら同じ指輪を嵌めて彼を待っているひとがいるかもしれない家へ戻るのを遅らせて、もう少しだけ一緒にいてくれるだろうかと、浅ましい期待が口の動きを鈍らせる。
 それに、クロムの大きな手から伝わってくる心地良い温度は、今朝方から続く切ないような苦しいような衝動でざわめく心を、思った以上に慰撫してくれた。
 
(……私、やっぱりクロムさんが、好き……)

 始めは恋人だといきなり言われて戸惑ったけれど。記憶は失くしても、刻まれた想いまでは消えなかったのだと思う。
 だって、いくら大怪我を負い、己の過去さえ忘れて不安な中で優しくしてくれたからといって、胸が苦しくなるほどの愛おしさが短期間で育つはずない。元々ルフレが、彼を切なく想い焦がれ、求めていたからこそこんなにも慕わしい。
 きっと、無くなってしまった荷物の中には彼から貰ったものが入っていたのだ、と。ふいに、そんな思考が泡のように浮かび上がってぱちんと弾けた。
 失くしたものが何なのかは思い出せないけれど、ずっと大切にしていたのだろう。
 世間に憚る関係だったかもしれない恋人を、逢えない日も追慕する縁にしていた可能性が高い。
 それが今も、ここにあればよかった。そうすればこんな浅ましい感情も、少しはましだっただろうに。
「……もう、遅いですし、お腹も空いていないので……今日は薬湯だけ飲んで休みます。クロムさんも……もうすぐ、帰るお時間ですよね?」
 声に力がないのは、寝起きでぼんやりしているからだと思ってくれればいい。密やかにそう祈りながら、ルフレは手を伸ばして優しく視界を覆うクロムの手のひらを遠慮がちに外した。
 そのまま残り僅かな逢瀬の時間を惜しむように手を放しかねていると、指を絡められ、彼の方へ引き寄せられた。あたたかな呼気が、肌の表皮を掠める。
 問い掛けへの返答はなく、無言でひたと据えられた視線の強さだけがはっきり感じ取れた。暗闇に溶け込むようにして寝台の側に控える青い影から伝わってくる、張り詰めた空気。

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