「……クロムさん?」
やはり、クロムの様子がいつになくおかしい。指先に感じる熱にまた頬が熱くなる一方で、恋人のどこか危うい姿が気がかりだった。
これまで時折微かに感じていた違和感も気の所為ではなく、心にかかる影があることをルフレの前では隠していただけなのかもしれない。恋人をじっと見つめながら、ルフレはほんの少し逡巡した。
何か、彼のために出来ることがあるなら力になりたい。けれど、未だ寝台から離れられない怪我人の身。優しいこの人は、ルフレが気付いたことを知れば心配を掛けまいと、この場では取り繕った当たり障りのない誤魔化しを口にして、以降は完璧に隠してしまうような気がした。
苦しいなら、辛いなら、それを全部分けてほしいのに。
「あの……」
「――――執事から、聞いたんだが」
躊躇いよりも案じる気持ちのほうが勝り、口を開こうとしたところでクロムが小さく呟いた。強張って喉に張り付いていたものを無理に絞り出したような声だった。
「……事故に遭った時の荷物が残っていないか、尋ねたらしいな。……何か、思い出したのか……?」
ルフレへの返答ではなく、まったく脈絡のない問いが、冷たさを増したように感じる闇の中へ溶けていく。
そこでふいに、彼は何かをひどく恐れているのではないかと思い至った。でも……何を?
「……いいえ、ただ夢を……見たような気がして」
「……夢?」
ルフレの一言、些細な動作ひとつで、張り詰めたこの空気を破裂させてしまうかもしれないという予感から、今にも割れそうな凍った湖面へ足を踏み出すように恐る恐る口を開く。
クロムが恐れているのは、やはりルフレが記憶を取り戻すことなのか。過去を思い出せば、彼と過ごす束の間ながらも優しく穏やかで、満ち足りた時間が泡沫のように消えてしまう、そんな何かが二人の間にはあるから、今夜こうまで思い詰めた気配を漂わせているのか。
時たま、ちくちくと心を刺してきた不安と疑念の荊。それがクロムの様子で養分を得て急激に育ち、ルフレの胸を軋ませる。
「はい。内容は、まったく思い出せなくて……でも、誰かに大事なものを、貰ったような……」
「誰にだ?」
絡み合った指の力がにわかに強まった。鋭く尋ねるクロムの声はひどく硬い。ざわめく胸を上掛けの上から片手でそっと押さえ、ルフレは青い影に目を凝らす。
彼の、月が明るい日の夜空を思わせる濃い青の瞳が無性に見たかった。
(きっと、クロムさんに貰ったものだと思うんです、って……言ってしまっても、いいですよね……?)
大切なひとに、とても大事なものを貰った。それは確かだから。
天涯孤独だというルフレが『大切な』と、甘くも切ない感情と共に想起するなら、恋人であるクロム、ただひとりのはず。
そうしてルフレが言葉を発しようと小さく息を吸うと、何かが記憶の端を掠めた。
吸い込まれそうな深い、深い青。
立ち止まる自分。
差し出された何か。
優しい声。
けれど。
――――思い出して。どんなに辛くても、苦しくても、大切な思い出でしょう?
――――いいえ、だめ。思い出さないで。忘れたままでいて。
相反する声が頭の中で反響して不協和音を奏でたことで、記憶の影法師はあっという間に走り去ってしまった。
「ルフレ?」
残されたのは胸の痛みと、霧に包まれたように茫洋とする意識。舌に載せかけた言葉は音として紡がれる前に霧散し、代わりにこぼれ落ちる囁き。
「……そう、大事なもの、なんです。……とても大切なひとに、もらった……」
大切なひと、というのは即ちクロムを指しており、そしてそれは正しく真実だった。
かつてクロムの瞳の色を思わせる青い石の耳飾りを、ルフレが彼に贈られたことも。
彼女がそれを宝物のようにしまい込んで、苦しい片恋を忘れようとしながらずっと捨てられなかったことも。
追手から逃れるべくひた走る馬車の中、生まれたばかりの我が子を抱いて震える彼女の懐中にやはり耳飾りが忍ばされていたことも。
けれど真実は時に容易く歪曲される。人は、己が見ようとする事実しか見ない。
クロムにとって、それはルフレの恋人、彼女がかつて、半身である自分には一度たりとて向けなかった甘やかな微笑み、恋を滲ませた声音――そしてクロムが未だに許されていない口づけを、当然のものとして享受していた男の存在を、決定的に裏付ける言葉だった。
折しもこの時、外では夕刻から出始めた雲が分厚いカーテンのようにすっかり夜空を覆い尽くし、か細い月を隠していた。
頼りなげに差し込んでいた僅かな月明かりさえ消えた室内。
クロムの瞳の蒼が周囲の闇と同化するようにどろりと濁っていくのを、だからルフレは少しも気づけなかった。
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