太陽が、落ちて行く。
ぎらついてその存在を主張する夏と異なり、どこか遠く昼の空に輝いていた日輪は、悶え苦しみながら天の主役を月に譲ろうとしていた。
一説によると、夜の女神に恋をした太陽神は、決して手に入れることができない相手に恋焦がれ、せめて己の残滓を僅かなりとも夜空に残したいと、ああも激しく燃えながら沈んでいくのだという。
古くから伝わる民間伝承のひとつ。
恋の苦しみでのたうち回る太陽が流す、血の如き色に染め抜かれた空を見遣りつつ、クロムは馬を走らせた。
肌を刺す冷たい冬風。愛馬を駆る彼に、供回りの人間はいない。王としてはあまりに不用心だが、即位前から自警団の長として身軽に動いてきた身には、仰々しい護衛も供も煩わしいと振り切ってきた。
幼少期からの付き合いである騎士団長のフレデリクに知られれば、また大目玉だろう。
このところ、一日の政務を終えた夕刻になると連日クロムがひとりで城を離れ、深夜近くまで戻らないものだから、最近見る彼は眉間に皺を寄せ、一言物申そうと主君を待ち構える、夜遊びを咎める母親のような姿ばかりだ。
だが、どうあってもこれから向かう先に誰かを連れて行くわけにはいかないし、行き先を尋ねられても答えるわけにはいかない。
やがて、最後まで空にしがみついていた太陽が完全に力尽きた頃、クロムは緑に埋もれるようにして佇む建物に辿り着いた。
重臣たちでも限られた者しか知らない、直轄領にある聖王家所有の館。
聖王やその家族がお忍びで訪れるごく小規模な造りで、一年の内大半は管理のための僅かな人間しか配置しておらず、もの寂しい雰囲気だそうだ。
現在も、どことなく大きな音を立てるのは憚られる雰囲気がある。これは今、館で生活しているのが怪我人——しかも死後の世界への階に足をかけていたところからどうにか生還したばかりで、一日の大半をうつらうつらと眠って過ごしている——だから、というのもあるし、使用人を秘密が厳守できる者だけに厳選しているからでもある。
クロムを出迎えたのも、ガイアの部下のひとりで、一時的に館の使用人の統括を任せている男だけだ。
人の印象に残らない、ごく平凡な外見と雰囲気。そのため、様々な役柄を演じ、潜入捜査を行うことで情報を得るのを得意としているらしい。
クロムを出迎える姿は、いかにも貴族の屋敷の家宰か執事かといった風体で、誰も密偵だとは信じないだろう。
男に外套を預け、屋敷の『客人』の容態について手短に報告を受ける。
未だ微熱が続いており、寝台の上に身を起こしていられる時間は相変わらず短いものの、食事の量は増えてきたという。
まだまだ予断は許さない状況だが、命さえ危ぶまれていた頃に比べれば快方に向かっている、と言っていいだろう。
(とにかく今は養生すること、だろうな。あれだけの大怪我だったんだ、後遺症が残らないといいんだが……)
クロムの元へ来る途中、乗っていた馬車が崖から落ちた、とルフレには説明したがほとんど嘘だ。
実際は、サーリャの生家の屋敷を出た馬車をガイアたちが密かに追跡。無茶な速度を出した所為か車輪が故障し立ち往生していたところに追いついたものの、既に彼女の姿はなく。
周辺を捜索を続け、程なくして発見できたのはよかったものの、隘路で追い詰められたルフレは逃げようとして足をもつれさせ、崖下へ落ちてしまったという。
避けられたはずの事故だった、と聞いている。
ガイアは一切言い訳をしなかったが、部下の話ではいくら縫うような道であっても、乱闘で揉み合ったわけでもないのに体勢を崩すなど、以前の軍師殿では考えられないことです、と、心底疑問に感じている様子だった。
よほど体調が悪かったのか、それとも他の理由があるのか。何にせよ、彼女が大怪我を負った原因はクロムが出した命令によるもの。
真実を知らないルフレは医者や薬、日々の食事や介助まで、金に糸目をつけずあれこれと尽くすクロムのやりようを優しさだと受け取って、強く恩義を感じているようだが……。
これが、優しさなどであるものか。
こみ上げてくる自身への強い嫌悪感と罪悪感をどうにかやり過ごしつつ、報告を済ませた男を労い、ひとりで上階への階段を登る。
館の規模はごく小さいので、二階に上がれば客人が療養している客室まではすぐだ。しかし、床が泥の沼に変わったように足取りは重い。
荊棘のように絡みつくのは、事故の報せを聞いてから今日まで心を締め上げる自責の念と、あともうひとつ。
あるひとつの恐れが、泥沼の底からずっとクロムを見ている。
朝も、昼も、夜も、ただ静かに、じっと。
そしてこの扉を視界に捉えると、やおら手を伸ばして、クロムの心臓を撫で上げる。フェリアの吹雪よりも冷たく、痛みさえ感じさせる手が。
————お前は罪人だ、と誰かが囁く。
その声に耳を塞ぐのは、徐々に難しくなりつつあった。
しかし、太陽が苦しみ血を流しながら、それでも夜を恋うことを止められないように、クロムは今日も扉の先へ進まずにはいられない。
……扉の先にあるのは仮初の甘い幸福か、あるいは束の間の幻想が消えた現実か。
重い足を努めて普段通り動かして、客室の前へ立った。
からからに乾いた口中を、ごくりと唾を飲むことで僅かなりとも潤す。
そうして、身勝手な祈りを胸に抱きながらゆっくり扉を開いて————。
「————クロムさん」
客人——ルフレは、偽りの恋人の訪れを待ち望んでいたように、寝台の上で花の如く微笑んだ。
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