抗議の声もむなしくクロムに抱きかかえられて寝室まで辿り着くと、彼はひとまず畳の床に置かれた座布団の上にルフレを座らせ着物を強引に脱がせようとする。なんだか大事(おおごと)になってしまったと、慌ててその手を制しながら、ルフレは必死に声を張り上げた。
「く、クロムさん! 私本当になんともないんですったら!」
「まだそんなことを……ならどうしてそんなに顔色が悪いんだ」
「そ、それは……」
不機嫌な声と表情とで返されて、思わず言葉に詰まる。以前の経験から多分そうだろうと思いはしたけれど、確証がなかったのでクロムに今伝えてもいいのか迷ったのだ。だがその逡巡を夫は別の意味にとったらしく、しばらく無言でルフレを見つめると、息苦しくなるほど彼女を抱き締めた。
「……何か悪い病だったらどうする。ようやくお前が戻って来て、小さい<マーク>も生まれて。これから、これからだろう? これから、家族の思い出をたくさん作っていくんだ。それなのに……もし、ここで心配要らないというお前の言葉通りにして、後でお前が倒れたら……」
「クロムさん……」
ルフレの耳元で囁くクロムの声は弱々しく、背中に回された腕は微かに震えていた。かつての自分の決断が夫の心に付けた傷が、数年経っても未だに癒えていないことを今更ながらに突き付けられて胸が苦しくなる。
――――ああ、またこのひとを傷付けてしまった。
確証がないから、などと躊躇っていないで早くルキナと話している時点で誤解を解いてしまえばよかった。そうすれば、喪うことをひどく恐れる彼をここまで心配させずに済んだのに。
「ごめんなさい……クロムさん。やっぱり、お医者様を呼んで頂いた方がいいかもしれません」
クロムの着物の裾をそっと握って囁けば、彼は血相を変える。すぐにでも飛び出して行きそうな勢いだったので、今度こそ誤解させないようにと握った布地を強めに引いて、夫を安心させる言葉を告げる。
「……次の新年は、家族七人で迎えられるかもしれないですよ」
「ルフレ……?」
すぐに意味を取りかねてぽかんとしているクロムの手を、まだ膨らみ始めてすらいない腹部へ導き「クロムさんは男の子がいいですか、女の子がいいですか?」と微笑んで尋ねた。
それでようやく得心がいったのだろう、弱々しかった表情から一転、喩えようもない喜びを墨で汚れた面に溢れさせたクロムは、感極まった様子で「ルフレ!!」と彼女の名を叫び、ぎゅうぎゅうと抱き締めてきた。
「く、苦しいですクロムさん……!」
「あ、ああ。すまん……っ」
一応それで解放はしてくれたものの、今度はそわそわと部屋の中を見渡している。……何やら嫌な予感がした。初めてルキナを身篭ったと分かった時も、やれその格好は寒すぎる、もっと暖かくしろだの、転んだら大変だから寝台から一歩も動くなだの、散々大騒ぎをしたのだ。
今度は何を言い出すのかと思っていると、よく通る声で「マーク!!」と息子の名を呼んだ。
ほどなくして心配そうな表情の、近頃大分背が伸びたマークが現れた。娘のルキナの姿は見えなかったから、幼い姉弟と一緒にいるのだろう。
「……父さん、母さんは大丈夫ですか?」
「ああ、心配ない。だが急いで用意して欲しいものがあるんだが、頼めるか?」
「は、はい。勿論です。でも何を……」
「さっきのハネツキで使っていた墨と、筆と、紙だ」
「……………………はいぃぃ?!」
マークだけでなくルフレも、クロムが言い出したことの意図が分からなかった。ルフレはおそらく、また身体を冷やすなだの何だのと言って、温石や山ほどの毛布でも持って来させるのかと思ったのだけれど。
墨と、筆と、紙。
これらを使ってできることと言ったら、文字を書くことくらいだ。いったい何をしようというのかと思っていると、クロムは手近にあった毛布をルフレに巻き付けてぽつりと呟きを漏らした。
「……名前だ、名前」
「え?」
「ルキナの時は悩み過ぎて結局生まれるまでに決められなかったし、マークはもう先に知ってしまっていたしな。だから今度こそ、生まれる前にどういう名前がいいかよく考えておこうと思ってだな……」
「クロムさん……」
そっぽを向いているが、こちら側に向けている耳が赤いので彼が照れているのは明白だ。毛布によるものだけではない温かさを感じて、「ありがとうございます……だいすき、です」と囁くと、ルフレは愛しい夫の頬に口付けた。
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