イーリスとペレジアの国境沿いの峠から少し離れた、深い山間にあるギムレー教の神殿。その最深部、竜の祭壇と呼ばれる禍々しい気配が満ちた場所で、ルキナは呆然と眼前で起こった出来事を見ていた。
つい先刻、虚ろな眼差しでファウダーに操られるまま、父の腹に魔力の凝った剣を突き刺した母。その彼女が、運命は変わらぬと哄笑した教主に俊敏な動きで雷撃を放ったのだ。
完全に不意を突かれ、ファウダーは愉悦の笑みを浮かべていた顔を苦悶に歪め、冷たい祭壇の床に膝を付いた。全力で放たれた魔力をまともに受け、鮮血が溢れ出す傷口を手で抑えながら苦々しく母と、立ち上がった父を睨め付ける。
「ぐ……馬鹿な馬鹿な馬鹿なぁああああああ!!」
「……確かに未来で、こいつは俺を殺したのかもしれない。だが未来は未来、今は今だ。お前は未来を知るあまり侮った。ルフレを……そして、俺達を。これがその結果だ、ファウダー」
「私は絶対に、あなたの思うとおりになんてなりません」
地に倒れ伏していた筈の父は、深手を負っても魔導書を手放そうとしない男から母を庇うように一歩前に出ると、すらりと鞘から愛剣を引き抜いた。仄暗い地下の祭壇にあっても清廉な光を放つ宝剣。かつて世界に光をもたらしたイーリスの至宝。
「認めん、認めんぞ……! 貴様はここで死ぬ! ギムレー様は我が子を器として蘇る!! 我らが一族の悲願は今日のこの日ようやく叶う!! それが運命……!!!」
「生憎だが、お前達一族の悲願とやらにこいつを差し出すつもりは毛頭ない。ルフレは大切な俺達の仲間……そして俺の半身だ。邪竜になどくれてやるものか!!」
冷ややかな眼差しの中にちりちりと燃える青い焔をちらつかせながら父が叫ぶ。そこにあるのは目の前の男に対する怒り。それは娘のルキナですら、触れるのを躊躇わせるほどに激しい。不用意に触れれば容赦なく焼き尽くされてしまいそうで。父の激情を映してか、ファルシオンはさらにその輝きを増していくようだった。
「くっ……運命は変わらぬ……っ。変わらぬぞぉおおおおおおおお!!!」
掲げられた宝剣にファウダーは苦痛にのたうつ表情を一層歪めて叫ぶ。周囲に禍々しい力が集まっていくのが分かった。最後の悪足掻きか。構わずに父がファルシオンを振りかぶり――だがその切っ先が男の身体を掠める直前、その闇色のローブに包まれた姿が掻き消えた。
「くそっ! 逃げたか」
宙を切った剣先に舌打ちをする父。周囲には、既にファウダーが撒き散らしていた強烈な闇の魔力は消え去っていた。目下の敵がいなくなったことで、僅かにではあるが母が緊張に強張らせていた表情を緩めた。
そして、目を見開いて一言も発せずに事の成り行きを見ているしかできなかったルキナと視線が合う。
「あ……」
「……あなたには怖い思いをさせてしまいましたね、ルキナ」
「お母様……」
優しく優しく、母が微笑んだ。ルキナの記憶にある忘れ得ぬそれと寸分違わぬ笑み。まだマークが生まれる前、怖い夢を見たと言っては子供部屋を抜け出し両親の寝室に潜り込んでいた自分の頭を撫ぜ安心させるように浮かべていたそれ。
「まあ、こいつは俺にも何も教えてくれていなかったんだ、許してやれ」
「……お父様……」
今度は父が苦笑した。あの未来で、絶望の始まりはこの人の死だった。遺体もなくただ生前に愛用していた品々だけを詰めた、空の棺で弔った父。それでも夢で幾度もルキナを苦しめた、血の気の失せた表情ではなく確かに動いて息をしている姿。
じわりと視界が滲んだ。もっと二人の姿を、顔をよく見ていたいのに、ほとんど何も見えない。どうしてだろう。ふらりと両親に向かってルキナは一歩足を踏み出した。ぽたりと何かが落ち、石床に染みをつくる。それを合図に湧き上がる衝動のまま母と父の元へと一目散に駆け寄った。
「……おとうさま……っ、おかあさま……!!」
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