杯に注ぐは毒か愛か - 1/4

 燃え盛る炎のようだった夏の夕陽が沈み、空はゆっくりと宵闇の色へ塗り替えられていく。
 夜がやってくる。人々を安らがせる夜、けれどルフレにとっては何より恐ろしい夜が。
 自分の天幕の中で簡易寝台の端に腰掛けたルフレは、彼女を苛む悪夢の記憶から身を守るように、両手できつく自分を抱いた。
 ヴァルムの夏の夜はからりとしていて、風がそよぐと涼しさを感じるとはいえ、まだ薄着でいなければ過ごしづらい気候だ。
 それなのに、ひどく寒かった。地図や軍議用の資料などが所狭しと並ぶ天幕内で、ひとり身を震わせている姿は、到底イーリス・フェリア連合軍の頭脳である軍師のものとは思えない。
 『彼』を呼べばいいのだと、分かっている。ルフレが想い焦がれるひとと同じで、けれどたったひとつだけ決定的に違う点を持つひとの腕の中でなら、悪夢に怯えることなく眠れるだろうから。
 事実、愛しいひとを手に掛ける夢を見続けていることを知られたあの夜から、幾度となく彼の温もりに縋り付いてきた。
 でも、今やその熱で小さく、限りなく小さくなりつつあるルフレの冷静な部分が、このままでは駄目だと叫ぶのだ。
 
(クロムさん……っ)

 どちらの『彼』に対するものか、必死にルフレは心の中で名を呼んだ。まるで救いを求めるように。
 その声に応えるように、扉代わりになっている天幕の入り口の布がめくられ、月明かりと共に夜気が入り込んできた。
 ただ、月光は入口付近に佇む人物に遮られ、僅かしか差し込んではこない。
 顔を上げれば、そこには男が立っていた。日中、身に着けている仮面はなく、精悍な容姿は遮るものなくそのまま晒されている。
 歳月の経過が与えた差異を除けば、ルフレの光そのものである青年と、そっくり同じ顔立ち。
 訪いの許可を求めず、黙って中に入ったことを咎めてもよい立場なのに、ルフレはそうできなかった。
 魅入られたようにただ、ゆっくりと近付いてくる男を見ている。
「ルフレ……ひどい顔色だ」
 やがて<クロム>はルフレの側までやってくると、気遣わしげにそっと頬を包み込んだ。
 全身に広がっていた寒気がたちまち止んでいく。手のひらから伝わってくる熱が、全身に染み渡っていくようだ。
「く、ろむ…さ、ん……」
「どうして昨夜、俺を呼ばなかった? お前の様子なら、またあの夢を見たんだろう?」
「でも、私……」
 紡ぎかけた反論は、言葉にならなかった。隣に腰を下ろした<クロム>が、優しく、けれど無視できない力強さでルフレを抱き寄せたからだ。
 天幕の中が薄暗い所為だろうか、力強い鼓動がよりはっきり聞こえる気がする。彼の生命が失われていないことを示す音。
 悪夢を退ける魔法の音に、ルフレの口は貝のようにぴたりと閉ざされてしまった。
「……いいか、ルフレ。何度も言っているだろう。気に病む必要はない。俺のいた未来で……お前は、俺の恋人だった。恋人を慰めるのに、理由なんていらない。そうじゃないか?」
 
 ――――私は、あなたの『ルフレ』じゃありません。

 以前のルフレなら、きっとそう答えていた筈だ。でも、あの頃<クロム>を拒んでいた自分は、もう息も絶え絶えで、ほとんど力は残っていなかった。
 拒絶がなければ、彼は『恋人』と同じ存在に触れることを躊躇わない。
 分かっているのに、顔を上向かせられ、温かな吐息を感じられるほど間近で視線が絡み合っても、ルフレは抗えなかった。
「何も考えなくていい……今、俺はお前の恋人の『クロム』だ」
 深い深い藍色の瞳に吸い込まれていく。ああ、夜の中に堕ちて行くみたいだと頭の片隅でぼんやりと思う。
 悪夢をもたらす夜と違って、それはルフレを決して傷付けたりしない。
 けれどいつか取り返しの付かないことになる、という警告の声ははあまりに小さく。ルフレは、彼の注いでくれる熱情に、今夜も溺れるようにのめり込んでいった。

 

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