分厚い硝子の向こうに見える空。その色が橙からゆっくりと宵闇の彩へ塗り替えられていく頃始まった宴は、更待月が夜空に浮かんでもなお、終わる気配を見せない。
イーリスで開かれる宴ならば、ほとんどの者が酔いつぶれている時間だ。だが周囲を見回しても、フェリアの面々は国中の酒蔵を空にするつもりかというほどの量を飲み干しながら平然としている。しかもその消費された酒の大半が、寒さの厳しいフェリアで好まれる強い火酒なのだから唖然とするばかりだ。
クロムとて酒は嫌いではないが、賓客として招かれた席で喉を灼くような火酒を呷る勇気はない。未だ代理とはいえ実質的なイーリスの国主はクロムである。聖王が他国の宴で泥酔したとなってはあまりに情けない。
(……とんだうわばみぞろいだな、この国は)
内心苦笑し、さほど強くない果実酒で満たされた杯を手に持ってそっと大広間の中央を離れ、壁際に寄った。石造りの壁は一見冷たそうだが、触れるとほのかに温かい。聞くところによると、火炎の魔法を応用して常に熱を発するような仕組みになっているらしい。
聖都もフェリアよりは温暖だとはいえ、冬の時期はやはり寒い。秋が深まり、朝晩は大分冷え込むようになった。寝室だけでもこのように暖かくできれば、放って置くとすぐに薄着のままぼんやりとしてしまう妻にも、お腹の子にも良いだろう。
身重の妻――今回イーリスに残ったルフレの為に、技師のひとりでも借り受けられないかとほどよく酒気の回った頭でぼんやり考えながら、クロムは壁にもたれかかり銀鏡のような月を見遣った。
「――――ひとりで月見かい? 聖王陛下」
「フラヴィア」
今夜の主役から差し出された杯を反射的に受け取り、思わず顔を顰めた。匂いだけで酔いが深まりそうだ。それなのに目の前にいる女性は顔色ひとつ変えずにけろりとしていて、潰れる気配すら窺わせない。
過日大々的に開かれた闘技大会において、西の王バジーリオの選んだ代表者を打ち破り、再びフェリア王となった東の王フラヴィア。片手斧と並の男でも扱いに難儀する重剣を使いこなし、徹底的な実力主義で知られるこの国で気性の荒い戦士たちをまとめ上げる女傑。
彼女の即位を祝う為の祝典なのだからもう相当な酒量を注がれた筈だが、上手く躱したのか、それともその量を飲み干しても平気なほどの酒豪なのか。――おそらく後者だろうとクロムは結論付けた。
「並みいる美女を差し置いて月ばかり見てるとはつれないねえ」
「……美女?」
「なんだい、目の前にもひとりいるじゃないか」
美女。美しい、女性。
笑みを履いた唇から紡がれた単語の意味をしみじみと頭の中で反芻し、続いて給仕から奪い取るようにして杯を呷ったフラヴィアをまじまじと見つめる。
今宵の彼女は公式の祝宴だけあって正装をしているが、ドレス姿ではない。戦場では常に鮮やかに燃える炎のような鎧を身に着けているが、その下にある襟元の詰まった作りの上衣に袖を足し、下半身も引き締まった足を足首まで覆うような形にした物を纏っている。騎士の正装に似ているが、それよりももう少しだけ動きやすそうだ。
女官たちから密かに熱い支持を集めているというのも頷ける彼女のその恰好と、火酒に躊躇わず口を付け美味そうに目を細める仕草から連想するのは、妙齢の美女というよりはむしろ。
「ちょいとクロム、あんた何でそこで黙るんだい?!」
「い、いやあ……」
じろりとこちらを睨めつけられ、冷や汗が背中を伝うのを感じながら乾いた笑いを浮かべた。
今思ったことを正直に話しては、まず間違いなく今夜は帰してもらえない。艷めいた話ではなく、荒くれ者たちをまとめ上げる、フェリア女王の鍛え上げた拳が炸裂するという意味で。
「はっはは、残念だったな新王さんよ。どんなに着飾っていようと、こいつにゃあ奥方以外の女なんざその辺の石ころと同じさ」
豪胆な笑い声と共に伸びた手が、フラヴィアの飲みかけの杯を掠め取った。いくら戦場ではなく、話しに熱中していたとはいえ、王である前にまず優れた戦士である彼女の背をあっさりと取る男。
フラヴィアはち、と舌打ちして「バジーリオ、そいつを返しな!」と素早く背後の男へ掴みかかったが、屈強な体躯を正装で包んだ男はひらりと躱して杯の中身を飲み干してしまった。
「あんたねえ……!!」
「ま、まあフラヴィア、これでも飲んで落ち着いてくれ! ……それとバジーリオ、俺が色ボケ男みたいな言い方はやめてほしいんだが」
形の良い眉を吊り上げ激怒する女傑王に、慌てて先刻彼女から押し付けられた酒杯を差し出す。
この二人が言い争いを始めて、それがそのまま口だけで済んだ例がない。新王の即位を祝う宴で、正にその新女王とそれを補佐する西の王が乱闘騒ぎを起こしたなどとあっては、噂好きな人間の恰好の餌食だ。
更には自分がルフレ以外の女性を物の数にも数えていないような発言をしたバジーリオを捨て置けず咎めたのだが、敗れ去ってもなお、さすがの貫禄を漂わせる西の王が浮かべたのはにやにやと人の悪い笑み。
「嘘はよくないぜクロム。婚儀の後、三日三晩寝所から出て来なかったのはどこのどいつだ?」
「うっ」
「ああ、そういえばそんなこともあったねえ。式から戻って来てしばらくしてこっちにも噂が流れてきたけど、あれは独り身の奴らが可哀想だったよ……」
新たな酒が手に渡ったことで怒りも収まったのか、フラヴィアもバジーリオに便乗してしまう。後先を考えずに行動してしまったが失敗したかもしれない。この東西のフェリアを束ねる両王が、一度息を合わせるとクロムごときでは手に負えない。
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