聖王代理、理性と本能の綱引きをするの巻 - 2/4

 

「あ、クロムさん」
 いつまでも扉の前で硬直している訳にもいかず、クロムにしては珍しく控えめにノックをしてから百合の間の中へ入ると、濃い藍色に、所々温かみのある白い花が散っている生地で仕立てられた浴衣を身に着けたルフレが、弾むような足取りで駆けて来て出迎えてくれる。
 軍師服の時は長い髪を二つに分けて結っているが、今日はどのようにしたのか、編みこんだ毛束を後頭部の下の方で集めてくるりとねじり、丸い形にまとめて髪飾りで止めていた。普段は隠されている白いうなじが、目に眩しい。
 ぐらりと、早々に理性という細い綱の上から落下しそうになり、すんでのところで堪える。そんな夫の葛藤を知ってか知らずか、彼女は嬉しそうにクロムの手を取り、室内の中央にある卓の前まで導いて座椅子に座らせた。彼女自身は、そのまま斜め向かいに腰を下ろす。
「マークが、どうしてもルキナと一緒がいいって駄々をこねたんでしょう? ふふふ、珍しいこともありますね」
「あ、ああ……そうだな」
 不審に思われないよう、間を置かず頷く。
 マークと自分、ルフレとルキナという、男女それぞれで分けていた最初の部屋割りを変えるに当たって、息子が考えた言い訳がそれだった。
 始めはマークがルキナを呼び出し、その隙にクロムがこの部屋に突撃する、という計画だったのだが。
 確実を期すため、父さんには朝まで頑張ってもらわないと! とか何とか言い出したマークによって(勝手に)変更が加えられたのだ。
 そのため、ルフレとこの部屋で一晩過ごさざるを得ない状況に追い込まれている。
 
(いやいや、その……勿論ルフレと同じ部屋が嫌な訳ではないんだが……)

 それどころか、最愛の妻にして半身たる彼女とは、四六時中一緒にいてもいいとさえ思っている。
 しかし、クロムがここに来た――というより、来させられた――のは、息子の『おねだり』を叶えるためであり。
 そのおねだりの中身はと言えば、両親に『仲良く』してほしいという内容で。
 世界平和のためにも、などと最後の頃はよく分からない話になっていたが、有り体に言うならば、早く小さい自分に会いたいので、せっせと子作りに励んでくれ、と。要はそういうことだ。
 無論、クロムとて愛しい妻と睦み合うこと自体に否やはない。だがしかし、だがしかし、である。
 ……我が子にお膳立てされて、というのはいくら何でもどうかと思うのだ。
「……クロムさん? お疲れですか、もう休まれます?」
「ん? ああ……いや、お前の浴衣姿があんまり綺麗だから見惚れて……っ」
 しまった、と思った時にはもう遅かった。無意識に口から漏れた本音は、既にルフレも聞き間違えようがないくらいはっきりと、音として空気を震わせてしまっていて。たちまち彼女は、ぼんっと効果音が付きそうなほど顔を真っ赤にして俯いた。
 二人の間に漂い始める、どうにも照れくさい、甘ったるい空気。子供まで儲けても、いつまでも初々しさを失わない妻に愛おしさが募る。
 いつもならば、ここで抱き寄せて、軽く口づけのひとつでもしているところだ。実際手は欲望に正直に、柔らかな肢体を引き寄せようとルフレの方へ伸びかけて――意志の力で動きを止める。

(口づけ、だけでは済まん気がする……というか、そこまでで済ませるのは絶対に無理だ……!)

 浴衣というのはただでさえ、普段彼女が着ている軍師服や、城で身に着けているドレスに比べ脱がしやすそうなのだ。ゆったりした、前開きのワンピースに近い、だろうか。
 形を留めているのは、おそらく腰で結ばれた帯があるからこそで、それを解いてしまえば……まずい、思考が危険な領域に立ち入りかけている。
 ぴんと張られた、理性という名のか細い綱の上で体勢を崩さないよう、全神経を集中させているような錯覚に捕らわれるクロムは、しかし意外なところから聞こえた物音に救われた。
 静寂が落ちる室内に響く、小さなノック音。それを耳にするや、クロムより先にルフレが勢い良く立ち上がり、ぱたぱたと入り口まで小走りで駆けて行く。
 甘く、けれど危険な葛藤から解放されたクロムはほうと息を吐いた。既に浴衣の下にある柔肌を想像して熱く滾る本能を頭の中でぴしゃりぴしゃりと鞭打ち、ルフレが戻って来るまでの間にどうにか大人しくさせようと努める。
 やがて、ひとまず不埒な妄想は遠ざけたと安堵しているところへ、まだいくらか顔が赤いルフレが、幾つかの小瓶が入った、持ち手の付いた木箱を手に戻って来た。
 重そうだったので、慌てて立ち上がって彼女の手から引取り、卓まで運ぶ。
「あ、ありがとうございます……」
「いや、構わない。というか、こんなに重いならすぐに俺を呼んでくれ。……それより何なんだ、これは」
「よろしければどうぞ、と宿の方から頂きました。ソンシンの『コメ』という作物から作ったお酒だそうですよ」
「……何、酒……だと?」
 ずっしり重い木箱を卓の上へ置き、瓶の一本を開けて鼻に近付けてみる。……確かに、エール酒や葡萄酒、蒸留酒のいずれとも異なる、けれど間違いなく酒精が含まれていることが分かるにおいがした。
 クロムは酒に弱くはないが、強くもない。酒を摂取すれば当然、理性の力は弱まり、その分だけ遠ざけた筈の、本能に忠実な妄想の影響はいや増すだろう。
 もしや、これもマークの差金だろうか。我が子の本気を感じ取り、だらりと冷や汗が噴き出した。
「珍しいお酒ですから、ぜひお試しくださいって。少しずつ味が違うみたいなので、飲み比べてもいいらしいです。……クロムさん、私、少しだけ飲んでみたいんですけれど……一緒にお付き合いしてくださいますか?」
「ああ、勿論だ。俺も珍しいものなら飲んでみたいしな」
 おずおずと上目遣いでされた愛妻の『おねだり』に、理性が阻むよりも早く、光の矢のような素早さで本能がクロムの口を開かせた。
 はっとした時には、既にルフレは花が綻ぶような、心底嬉しげな笑みを浮かべており。到底、やはり止めておこうとは言えそうにない。心の中で、小さく小さく溜息を吐く。

(仕方ない。あまり量を飲まなければ何とかなるだろう……多分)

 ことルフレに関して、自分の理性の頑強さにまったく信を置いていないクロムである。酒が入って、どこまで平静でいられるか不安だったが、普段あまり酒類を嗜まない彼女と、ゆっくり飲み交わせるいい機会だと思えばいいだろう。
 そう自分に言い聞かせて、見慣れぬ酒器に少し戸惑いながらも、楽しそうに酌の準備をしてくれた妻に勧められるまま、一杯目に口をつけたのだった。

 

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