聖王代理、理性と本能の綱引きをするの巻 - 1/4

 進退窮まる、というのは正に今、自分が陥っているような状況を指すのかもしれない。
 百合の花の意匠が彫られた、木製の扉の前でひとり立ち尽くすクロムは、ごくりと生唾を飲み込んだ。
 ここは異界にある、温泉宿。宿の建物内は大まかに、趣向を凝らした幾つかの温泉が点在する区域と、アンナ商会が商品を卸している売店、宿泊客用の滞在施設がある区域の三つに分けられる。
 宿泊用の部屋は花の名前で区別されており、内装や調度品、リネン類も、例えば秋桜の間なら淡いピンク色で統一されているといった具合で、それぞれの花にちなんだものになっていた。
 クロムが冷や汗をだらだらと流しながら見つめる扉を開けた先は、妻のルフレと娘のルキナ、二人の為の部屋だった。何故過去形なのかと言えば――――。
 ちら、と廊下の隅の方を見やると、柱の陰から身を乗り出している息子のマークと目が合う。ルフレと同様記憶がないというのに、あっけらかんとしていて、逆に目に写るものすべてが目新しいから楽しいと宣う少年は、爛々と輝く大きな目を細めて満面の笑みを浮かべ、ぐっと親指を立てて寄越した。
 頑張ってください、父さん! と唇が動いたように見える。おそらくクロムが室内に入るのを見届けるまで、あそこから動く気は……ない、だろう。

(すごく……いい、笑顔だな……)

 退路が完全に断たれていることを確認する羽目になってしまったクロムは、息子から見えぬよう短く嘆息する。
 何か欲しいものはないか、と。自由奔放、天真爛漫に振舞っているようでいて、その実子供らしい我儘をほとんど口にしたことがないマークが気がかりで、そう聞いてしまったのがよくなかったのだろうか。
 いやいやしかし、まさかあのような答えが返ってくるとは思いもしなかったのだから、仕方のないことだと言えるかもしれない。

 マークが欲しいと言ったもの。
 それは『小さい自分』、つまりこの時代、まだ生まれていない小さなルキナの弟、だったのだ――――。

 

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