眠り姫と不埒な王子 - 2/4

 
 
 五歳の誕生日の頃まで、<ルキナ>は『おかあさま』のことを絵の中でしか知らなかった。
 多分、自分が赤ん坊だった時のものだと思われる、誰かに優しく抱き上げられている記憶——温かくて良いにおいがして、この腕の中にいれば何も怖いことなんてないという、絶対的な安心感だけは覚えていたのだけれど。
 それが、『おかあさま』という存在と直接結びついてはいなかった。
 絵の中で、お腹に優しく手を添えて微笑む綺麗な女の人。その人が、朧げな記憶の中の、温かくて良いにおいがする『誰か』と重なったのは、ごく最近だ。
 <ルキナ>が五つになった少し後、父が慌ただしく出掛けてしばらく不在にしたと思ったら、長く行方不明だったという母を連れて戻って来たのである。
 怪我の後遺症が重く、寝付いているというので<ルキナ>は当初見舞いも許されなかったが、ある日偶然、中庭で母と邂逅したのだ。
 実際に会って抱き締めてくれた『おかあさま』は、絵に描かれている女の人を見て想像していた以上に温かくて甘い良いにおいがして、おまけにとても綺麗で優しかった。
 大好きな『おとうさま』とはまた違う、思わずふにゃりと笑み崩れてしまいそうな多幸感に包まれる感覚。
 <ルキナ>はすぐに、『おとうさま』と同じくらい『おかあさま』も大好きになった。
 そんな二人と今日はお茶の時間を一緒に過ごせることになり、ご機嫌な<ルキナ>は、再び鼻歌が飛び出しそうになって慌ててすまし顔を作った。足の運び方も、礼儀作法の先生に習った優雅な動きに変える。
 <ルキナ>の中では、母の部屋に来るまでは言わば準備段階。今はお手伝い本番に突入したので、お茶のお誘いは淑女らしくしなければならない、というのが持論だった。
 扉の真ん中より下の方をコンコン、と控え目にノックする。いつもはそれで、母の「どうぞ」という優しい声がするのだが——今日は何故か返答がない。
 <ルキナ>は、こてん、と頭を左に傾け、聞こえなかったのかもしれないともう一度、今度はさっきより少し強めに扉を叩いた。
「おかあさま、るきなです。おへやに入ってもだいじょうぶですか?」
 声も掛けてみたが、やはり辺りは静まり返っていて、中で誰かが動くような気配もない。……ひょっとして、母は具合が悪いのではないだろうか。
 母が父に連れられイーリスに帰還した当初、寝台から起き上がれないほど具合が悪く面会が叶わなかったこと——後に、それは『わるいひと』に狙われている母を守るためだった、と聞かされたのだが、最初の印象というのはなかなか覆らないものだ——、そしてその後しばらく周囲の大人たちが騒がしいことが続き、終いには母が倒れて面会謝絶になったことで、<ルキナ>の中で母は物語の中のお姫様のように繊細で、病弱な人だという印象が植え付けられてしまっていた。
 自分を「女に見えない」と宣ったクロムに石を投げ追いかけ回したり、思考が袋小路にはまり込むと、よく無心で腹筋や腕立て伏せを優に百回以上こなしていたルフレを知る、かつての仲間たちが聞けば涙を流して笑い転げるか、何とも言えない微妙な表情で黙り込むだろうが。
 父以外の誰かの前で口に出したことがないので、今のところ、幸か不幸か小さな王女殿下の勘違いが正される機会は巡ってきていなかった。
 そういうわけで、『おかあさま』はか弱い人だという刷り込みがある<ルキナ>は、慌てて周囲を見渡す。
 
 
(たいへんです……! おかあさま、中でたおれていらっしゃるのかもしれません……っ!)
 
 
 元々扉を開けるのに使おうと目論んでいた踏み台は何故か見当たらず、案内を断ったのでニナは当然近くにいない。
 五歳の幼女だけが駆けつけても役に立たないので、本当に中で倒れているのなら一度戻るのが正解だが、すっかり気が動転した<ルキナ>は呼びに行く時間も惜しく、礼儀作法の先生から毎日のように淑女たるべきもの云々、と教え込まれているお行儀を、今だけぺいっ、と投げ捨てることにした。
 ……ちなみに、踏み台を使うのも淑女としてどうなのか、というのは最初から綺麗さっぱり忘れられている。
 肘から下が鈴のように広がる袖をまくり上げてから、つま先立ちになって背伸びをし、居間に続くドアの取っ手に手を伸ばす。ぷるぷる全身が震えたものの、何度か飛び上がったり、腕をぱたぱたさせたりしている内に、どうにか手が届いた。
 思い切り取っ手を引っ張り、回しながら押すと軋むような音がして、少しだけ開いた扉の隙間へ身体をねじ込む。
「おかあさまっ! だいじょうぶです、か……?」
 未来から来た同じ名を持つ少女と同じ、高い身体能力の片鱗を垣間見せる、俊敏な動きで居間へ飛び込んだ<ルキナ>の語尾の勢いが弱まったのは、予想と違う光景が目の前に広がっていたからだ。
 母のルフレは、日当たりの良い、この部屋で一番の特等席である場所——二人掛けの長椅子で、肘掛け近くにあるクッションを枕に横たわっていた。
 膝上には重厚感がある立派な装丁の本が広げられていて、長椅子の前にある背の低い卓には飲み物が入っていると思しきカップとソーサーが置いてあるので、読書をしていたのだと推測できるものの、今、その瞼は閉ざされている。
 ただ、<ルキナ>が危惧していたように、具合が悪いということはなさそうだった。
 胸下で切り替えが入った、締め付けが少なくゆったりしている薄い青の室内着を纏い、クッションにもたれる母の寝顔は穏やかで、顔を埋めるととてもいい匂いがすることを知っている長い銀の髪が、午後の日差しに照らされきらきらと光っていた。
 母は全体的に色素が薄く、肌の色も白いので、暖かな光に包まれていると雪の国のお姫様が短い夏の昼下がりに微睡んでいるような印象を受ける。思わず見惚れてしまって、入口近くで棒立ちになったまま、<ルキナ>はその場からしばらく動けなかった。
 どこか非現実的で、物語の中の一場面を覗き見ているような感覚。
 けれどはっと我に返った次の瞬間、慌てて歓声を上げそうになった口元を小さな両手で覆う。
 
 
(『ねむりひめ』です……! りずさんがくれたごほんにあったおはなし!)
 
 
 心地よさそうに眠っている母を起こさないようにしながらも、片方に聖痕が浮かぶ<ルキナ>の大きな瞳は、思いがけず遭遇したおとぎ話を彷彿とさせる——あくまで<ルキナ>の中で——状況に興奮で輝いていた。
 叔母のリズが誕生日の贈り物として贈ってくれた、たくさんの本の中の一冊。
 その中に、眠ったまま目が覚めなくなってしまったお姫様を、王子様が口づけで起こしてあげる、というお話があったのである。
 そちらは悪い魔女の呪いが原因だったし、お話の挿絵でお姫様はもっと豪華なドレスを着ていたから、ただ眠っている、ということしか共通点はないのだけれど。
 それでも、仲睦まじい両親に対し憧れを持ち、恋物語好きのリズの影響を未来の世界より多分に受けた<ルキナ>は、都合よく目の前の状況を、おとぎ話の一場面に変換して大興奮していた。
 一度こうと思い込むと、生来の真っ直ぐで一本気な性質が妙な方向に暴走してしまうのは、未来の世界でもこちらでも変わらないらしい。
 よしっ、と声には出さず、心の中でよく分からない気合を入れて檸檬色のワンピースの裾を翻し、元来た道を引き返す幼い王女を、窓の外でのんびり日向ぼっこ中の小鳥が見送っていた。
 
 

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