暑くなく寒くなく、程よく暖かな、心地の良い陽気だった。
少しだけ開け放った窓からは、先代女王、姉のエメリナが好きだった、春を告げる花の匂いがふわりと漂ってくる。
つい先日まで、白い息を吐いて城下や地方の都市の視察に赴いていたことは記憶に新しいというのに、季節が移ろうのは早いものだ。
(もうペレジアとの戦が終わって、半年になるのか……)
午後の柔らかな日差しの中、山と積み上げられた書類に黙々と目を通し、裁可のために署名をしたり、あるいは再考を指示する箱に放り込みながら、クロムは怒涛のように過ぎ去っていったこの半年のことを思い返していた。
誰より敬愛していた姉の死。
誰にも信を置かず、力のみを信奉していたギャンレル王率いるペレジア軍との戦い。
同盟国フェリアや、多くの仲間たちの助けを得てそれに勝利したこと。
そして……。
「――――クロム様。そろそろ、休憩にいたしましょう」
はっと顔を上げると、フレデリクが執務机を挟んで斜め向かいに佇んでいた。
手には、長く王城で愛用されているティーセットと茶菓子を載せた盆がある。相変わらず、騎士というよりは熟練の執事のような、隙のない立ち姿である。
「ああ……そうだな。あまり根を詰め過ぎても能率が落ちるか」
ひとつ頷いてみせ、クロムは手元にあった書類に流れるように署名をして――この半年で一番上達したのは、自分の名前を書くことかもしれない――処理済みの箱に入れた。
机の上が空くと、手早くフレデリクがカップとソーサーを準備し、優美な仕草でポットから紅茶を注ぐ。良い香りだ。
うんちくを語らせたらうんざるするほど長かったヴィオールと違い、クロムに茶の良し悪しはよく分からないのだが、フレデリクが淹れてきたのだ、間違いはないだろう。
静かに差し出された紅茶を一口飲み、思っていたよりも喉が乾いていたことに気付いて、さらにもう一口飲む。
「……うん、美味い」
思わずそう口にすると、幼少時から長い付き合いの騎士は口元をほころばせた。表情は控えめながらも、何故かいつもより嬉しそうだ。
クロムやリズの世話を焼くことに命をかけている、と言っても過言ではない彼は、自分が用意したものに仕える兄妹が満足する様子を見せると、非常に喜ぶ。
おそらく、傍から見ればそう普段と変わりないように抑えているのだろうが、分かる人間が見れば分かるのだ。
しかし今日は、それに加えて何やら別のものが含まれている気がする。この紅茶に何かあるのだろうか。
「そちらは、ルフレさんからの差し入れなのですよ」
疑問に思いつつ添えられた茶菓子に手を伸ばすと、クロムの疑問を感じ取ったのか、フレデリクが柔らかい声で言った。
「ルフレが?」
「ええ。マリアベルさんからいい茶葉を分けてもらったので、クロム様にも、と。なかなか手に入らない逸品だそうです」
「そう、か……」
なるほど、それでやたらと嬉しそうだった訳である。フレデリクは、クロム自身より先にクロムのルフレへの想いに気付いていたから、慣れない政務に忙殺される主君が慰められると思ったのだろう。
確かに、以前の、ほんの一月前までのクロムなら、表に出さぬようにしながらも大層喜び、そして側役の騎士の眼差しに照れくさく、こそばゆい思いをしたはずだ。
だから今も、想い人からの心遣いを受けて、何か『らしい』ことを口にして見せるべきなのだろうが、外の陽気とは裏腹に薄暗い雲がかかったままのクロムの心が、喉の奥で言葉をつかえさせてしまう。
間をもたせるために、茶菓子として用意された料理長お得意のレモンケーキを頬張った。
幸いなことに、無言で咀嚼するクロムを照れていると解釈してくれたらしく、フレデリクは息子の初恋を見守る母親のような、なんとも言えない微笑を崩さない。
やがて、あまり味わえないままケーキを食べ終わり、まだ飲み頃の温度を保った紅茶を飲み干して、休憩は終わりと思いきや、意外なことを言い出した。
「婚約のお披露目の際のドレスが出来上がったそうですから、ご覧になってきてはいかがですか?」
「は? ドレスの仕上がりはまだ先じゃなかったか……? いくら何でも早過ぎるだろう」
「急がせました。クロム様が、ルフレさんとご婚約されたことを正式に発表するおめでたい日ですから、少しでも早いほうがいいかと思いまして。ああ、もちろんお披露目の日も半月早めましたので、そのつもりでお願いいたします」
さらりと、まるで明日の天気の話をしているような軽い口調だが、内容はまったく軽くない。クロムは頭を抱えた。
「フレデリク……俺は初耳だぞ」
「ええ、私もクロム様にお話するのは今日が初めてです」
「…………お前な……まあ、いい。ルフレは知っているのか?」
「いいえ。それはやはり、クロム様から直接お話いただいた方がルフレさんも喜ばれるでしょう。ですから差し入れのお礼も兼ねて、是非」
にっこりと更に微笑まれて、クロムはどうやってこのまま執務に戻るべきかめまぐるしく頭を回転させたが、元々口が上手いというには程遠く、嘘がつけない性格が災いし、不審に思われない言い訳を思いつけなかった。
内心気が重いのを気取られないよう、「分かった、行ってくる」と立ち上がって歩き出す。
見送るフレデリクの視線を感じながら、努めてきびきびと足を動かした。
ひと月前までの自分と同じく、愛しい婚約者の部屋へ向かう、幸福の絶頂にある青年に見えるよう。
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