執務室を出てからしばらくして、中庭に面した回廊に差し掛かった。城内に点在する中庭は、季節に応じた様々な表情を見せるよう、庭師が趣向を凝らしている。
この中庭も、ところどころ黄色を中心に、花弁が小さめの、可憐な花が咲いているのが目に入る。
もう少し花が咲きそろえば、上階からはこの一角だけ絨毯が敷いてあるように見えるだろう。
春の訪れを実感する光景だが、クロムの心は晴れなかった。
(ルフレは、婚約の発表が早まったことを喜ばないかもしれない……)
そんなことを思ってしまうのである。
ペレジアから帰還した後、亡き姉の跡を継ぎ、便宜上聖王代理として即位したクロムは、公人としてだけではなく、私人としても妻を迎える必要があった。
そしてそれはルフレ以外考えられなかった。『私があなたの半身になります』、そう言ってクロムを絶望の深い沼から引き上げてくれた彼女しか。
だから拙いながらも精一杯の言葉で求婚し、彼女も頷いてくれたはずだった。
あの時は、ルフレも自分と同じ想いでいてくれたのだと、天にも昇る心地だったというのに。
けれどひと月前、たまたまルフレがある青年貴族に言い寄られている場面――未だ正式な発表をしていないとは言え、聖王の婚約者相手にいい度胸だが、問題はその後だ――に遭遇してしまった時である。
ルフレは想う相手がいるから、とその貴族からの求愛をきっぱり断ったのに、重ねて相手から『それは、クロム陛下のことですか』と尋ねられて、はいとは頷かなかったのだ……。
*
現在のルフレの部屋は王族の居住区にもっとも近いが、位置的には他の客室と同じ棟である。
婚儀を上げて初めて王族として認められるため、それまではあくまで『客人』の扱いなのだ。
ただ未来の聖王妃、あるいは王配が一時的にせよ暮らす場所なので、内装も調度品も、どれも王族のものに引けをとらない。
フレデリクが付けている侍女の取り次ぎの後、クロムが室内に入ると、華やいだ複数の話し声が響いていた。
この部屋の主を囲んで、妹のリズと、その親友のテミス伯爵令嬢マリアベルがティーカップを傾けながら談笑している。
ルフレのドレスが仕上がったので、見に来たのかもしれない。
まったく女というやつは、どうして自分のものでなくとも、ドレスのこととなると目を輝かせるのだろう。
「ほらほらルフレさん、婚約者様のお出ましですわよ」
ちょうどマリアベルに突かれてルフレが立ち上がるところだった。今日は気候に合わせたのか、若草色を基調にして、春らしいミモザ色を縁取りにしたドレスだ。
動きやすいようにとの配慮か、レースやフリルは控えめで、スカート部分もあまり膨らませず、すとんと落ちるような形だが、却って動作に合わせて布地が動くのが分かるので、軽やかな印象がある。
馴染み深い軍師の黒いローブ姿もルフレらしいものの、やはりこうしてドレスを着た姿を見ると、ルフレが日に日に美しくなってきたのが分かって嬉しい。
けれどそれを表には出さず、「クロムさん、いらっしゃい。今日はどうされたんですか?」と出迎えてくれた婚約者の元へ歩み寄った。
「ん、いやちょっと、話があってな」
クロムを見上げるルフレの顔色は、あまり良くなかった。疲れているのだろうか。
しかし、婚約者を出迎えたのだからもう少し嬉しそうな顔をしてくれてもいいだろうに……。
これなら、リズやマリアベルと話していた時の方が、余程くつろいだ表情をしていた。
「それじゃあお兄ちゃん、ルフレさん、わたしとマリアベルは帰るね。お邪魔しました〜」
「馬に蹴られる前に退散いたしますわ。あ、ルフレさん、クロムさんにせがまれても、まだお披露目のドレスは見せたらいけませんわよ。クロムさん、邪魔者は消えますのでどうぞごゆっくり」
言外に二人きりで話があることを匂わせると、リズもマリアベルも気を利かせて退出してくれた。
ひと月前までのクロムは、頭の中に一足早く春が来ていて、しかも周囲からはそれが筒抜けだったので、妹もその親友も冷やかすような表情だ。
まさか二人も、クロムの心に疑心の雲が立ち込めているなど、思いもよらないに違いない。
ルフレは友人たちが去って、一瞬心細そうな、不安げな顔を見せたが、気を取り直したように椅子を勧めた。
「紅茶はいかがですか? 香りがとっても良くて、美味しいんですよ」
「さっき執務室で飲んだ。お前からの差し入れなんだろう? 確かに美味かった、ありがとう」
この部屋を訪れた目的のひとつである茶葉の礼を言うと、ようやくルフレは微笑みらしきものを見せてくれる。
綺麗になったな、と思わずもうひとつの用事も忘れ、呆けて見惚れてしまった。
自分の身なりにあまり構わず、いつも同じ軍師服を引っ掛けていたルフレだが、婚約が決まってから俄然やる気を出したマリアベルを筆頭に、彼女やリズが手配した教師陣に磨き上げられ、政務をこなしながら礼儀作法や立ち居振る舞いを学んだことで、みるみるうちに印象が変わっていった。
以前はそれを素直に喜んでいたものの、今は少々複雑である。
ペレジア戦の勝利に貢献したことで大分ルフレへの風当たりはましになったが、『どこの馬の骨とも知れない』女を、聖王妃として迎えることへ、まだ根強い反発をしている貴族たちは少なくない。
もし、彼女がクロムのことを、クロム自身と同じように想ってくれてはいないのだとしたら、このまま婚約を続け、無理を重ねさせてもよいのだろうか……?
「あの……クロムさん? それで、お話ってどんなことですか」
「あ、ああ……それなんだが。実は、婚約を正式に発表する日取りが早まったんだ」
「……え? 早まったって、どれくらい……ですか?」
「半月だ。俺もついさっき、フレデリクから言われて知った」
「そう……なんですか……」
些細な反応のひとつも見逃さないよう、じっとルフレを見つめて伝えれば、彼女はクロムの予測――それも悪い方の、だ――の通り、さっと表情をこわばらせた。
心に、黒い染みのようなものが広がっていく。
ルフレの反応を見るまではまだ、いくらか希望があった。もしかしたら、こちらの不安など杞憂で、頬を薔薇色に染め、可愛らしくはにかんで喜びを表してくれるかもしれない、と。
けれどその希望は儚く潰え、ルフレは微かに浮かべていた笑みも消してうつむいてしまった。
「嬉しくないのか?」
「……いいえ……嬉しいです。嬉しいんですけれど、でも……」
嘘をつけ、と思う。嬉しいのなら、一日も早く皆にクロムの婚約者として披露されたいのなら、こんな思い詰めたような表情はしないはずだ。
なあ、ルフレ。
心の中で、クロムは婚約者へ呼びかける。
そんな顔をするなら、どうしてあの時俺の求婚を断らなかった? 同情か? 姉さんが死んで、腑抜けていた俺を見ているから、放っておけないと思ったのか? だが他に好きな男がいたなら――――。
無理をする必要はなかった、とは空想の上でもどうしても言えず、口元を引き結んだままぐっと膝の上で拳を握りしめた。
少し前まで少女たちの華やかな笑い声が響いていた室内は、今は気詰まりな沈黙が落ちるばかりだ。
薄紅色の花びらが奇跡的に一枚落ちて留まっているような、ルフレの可憐で小さな唇。
まだその場所に触れるのを、一度も許されたことがないのは、こと男女の仲に関してはクロムより初々しい彼女の、愛らしい羞恥心ゆえと思っていた。
けれど、違ったのだ。
窓の外では春の陽気に誘われた鳥たちが、楽しそうにさえずっている。
その声をどこか別の世界のことのように聞きながら、クロムは焼けつくような想いでルフレを見つめていた。
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