彼の憂鬱、彼女の溜息 - 3/5

 昼間は程よく暖かかったが、日が落ちるとぐっと冷え込んだ。春先のイーリスではよくあることで、今日のような日と、風が強く日中でも肌寒い日を交互に繰り返し、花が徐々に満開になって本格的な春が到来する。
 湯冷めをしないよう毛織のショールを巻きつけて、寝台の端に腰掛けたルフレが軽く頭を振ると、ふわりと、何種類かの花の匂いが組み合わさった甘い香りが漂った。
 毎晩の習慣になった、入浴前後のマッサージで使われた香油のものだった。
 毎日毎日、自室と繋がった湯殿の広い湯船で温かい湯につかれるだけでも贅沢なのに、至れり尽くせりだ。
 それもこれも、ルフレが近い将来、クロムの妻として、この国の聖王妃になるからこそ、なのだが……。
「今日のクロムさん、最後は少し……怒っていましたね」
 抱えた膝に顔を埋め、ルフレは迷子になって途方に暮れる幼い子供のような声を出した。
 ルフレは今、クロムと、どこにも行く宛のなかった自分を軍師にしてくれた彼女の王と、正式な発表こそまだだったが、婚約をしていた。
 そして今日、その婚約披露を行う日取りが早まった、と知らされて、素直に喜んで見せることができなかったのだ。
 お披露目の際に着るドレスが予定より早く届けられたので、不思議には思っていたのだけれど、まさか半月も早まってしまうとは思わなかった。
 予想外のことにうろたえるルフレに、クロムは『嬉しくないのか?』と訊いてきたのだが、うまく答えられないでいる内に、彼はむっつりと、いかにも不機嫌そうな様子になって言葉少なに執務へ戻ってしまった。
 当然かも知れない。今日のルフレの反応では、まるで彼と結婚するのが嫌だ、と言っているようのものだったろう。
「……でも、違うんです。違うんですよ、クロムさん。私、本当にとても嬉しくて、でも……」

 ……どうしたらあなたにこの想いを気付かれず、『普通に』喜べるのか…分からなかったんです。

 悩ましげなため息が、唇から漏れる。さながら恋する乙女のように。
 そして、まさしくルフレは恋する乙女そのものだった。けれど、叶う見込みのない恋だ。
 ルフレは彼女の婚約者に想い焦がれていたが、クロムがルフレを妻に、と望んでくれたのは、甘やかな恋情を抜きにした、実務的な理由からなのだ。
 何しろ、求婚の際、彼は一度も好きだ、とか、愛している、とは言わなかった。
 彼が求めているのは、敬愛する姉から引き継いだこのイーリスを、よりよい国にしていくための同士だ。
 そのためには、氏素性も分からないルフレの方が、却ってしがらみが少なくていいのだろう。
 もちろん、彼の軍師として務めたルフレのことを、心から信頼してくれている、というのもあるだろうけれど。
 最初はルフレも、あの雨の中の敗走の後、フェリアで『あなたの半身になります』と誓った時のように、クロムの助けになりたいという純粋な思いから、彼の妻になることを承知したのだが……。
 しばらくして、ある日ふと気付いてしまったのだ。

(あなたが好きです、なんていまさら言ったら……きっとクロムさんは困ってしまいますよね……)

 おそらく、クロムにとっては、結婚も仕事の延長のなのだろう。
 以前女性には礼儀正しい、と言った通り、婚約者として大切にしてくれるけれど――時々、軽く抱きしめられたり、口づけらしきものをされそうになるから困ってしまう。そこまで気を使って、『らしく』しなくてもいいのに――、彼の心を欲しがるそぶりを見せてしまったら、他の令嬢たちと結局同じなのだと思われてしまう。
 クロムは優しいし、ルフレのことも長い付き合いの親友のように思ってくれているから、あからさまに邪険にされたりはしないだろう。
 でも、彼がルフレに向けてくれた、どんな宝石よりも純金よりも価値がある信頼を損なう真似はしたくなかった。
 だから知られてはいけないと、気付いてしまったばかりの想いを再び奥へ奥へと押し込めて、蓋をして。
 何でもないように振る舞おうとするのに、少しも上手くいかない。
 今ではクロムと一緒にいても、いなくても、常に彼のことが頭から離れず、胸が締め付けられているようで苦しくて堪らないのだ。
 内容はよく覚えていないが、嫌な夢も見る。きっと、今夜もよく眠れない。
 婚約披露の日が早まったなら、日程はさらに詰まるだろう。抱えている仕事を早く進めなければならないし、無理はできないから、少しでも眠って、体調を整えておかなくてはいけないのに。
 今日、リズとマリアベルに顔色の悪さを心配をされてしまったばかりなのだ。
 何より体調を崩してしまったら、クロムに迷惑がかかる……。

(クロムさんの支えになることができれば、それでよかったはずなのに。私……いつからこんなに欲張りになったんでしょう……)

 ぽすっ、と行儀悪く寝台に横になったルフレは、誰より何より大切で、恋しい青年の青い面影を思い浮かべながら、そっと目を閉じた。

 

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