彼の憂鬱、彼女の溜息 - 4/5

 ルフレが倒れた、という知らせを受けたのは、婚約披露の日が早まることを伝えに行って、気まずいまま別れてしまってから一週間ほど経った日のことだった。
 執務中だったが、後をフレデリクに任せ、取るものも取りあえず婚約者の部屋へ駆けつけたクロムは、居間から寝室に続く扉の前で、思いもよらぬ人物に阻まれた。妹のリズである。
 腰に手を当て、仁王立ちになった妹は、クロムより頭二つ分以上小柄なのに、くりくりとした大きな目を吊り上げた険しい顔で、こちらを圧倒するほどの迫力があった。
 ゴゴゴ、という効果音まで聞こえてきそうである。
 つまり、怒っている。それも並大抵の怒り様ではない。
 彼女の一番の好物であるベリーがたっぷり載ったプティングを、わざわざ取っておいてあるとは知らずうっかり食べてしまった時でさえ、ここまでの、以前修めたバトルシスターの職で用いる斧まで持ち出してきそうな迫力は醸し出していなかった。
 思わず気圧されたクロムは一歩後ずさる。すると、リズは兄の顔を見るやさらに凄まじい面相になった。
「お兄ちゃんのばかばかおバカ! あんぽんたん! おたんこナス! もう、もう、もう! もう信じらんない!!」
「な……っ?!」
 開口一番、こうまで可愛い妹から罵倒されるような心当たりはこちらにはない。
 あれからデザートはちゃんと残しておいてやるし、たまには自分の分も分けてやる。
 というか、リズはまだまだ子供っぽいところはあるものの、倒れた婚約者のところへ飛んできた兄に、そうしたことで邪魔をするような人間ではなかった。
 ではいったい何故、と勢い良く頭を回転させて考えている間に、リズはずずいとクロムに詰め寄り、「お兄ちゃん」と先ほどとは打って変わって静かな口調で兄を呼んだ。ただし、今や一国の主となった彼さえ圧倒する迫力は変わらない。
 ……要するに、怖い。
「な、何だ、リズ?」
「お兄ちゃんはルフレさんに求婚した時、何て言ったの」
「は? そ、そんなことはどうでもいいだろう。それよりルフレはだいじょ、」
「もう! そんなこと、じゃないのっ。お兄ちゃんのニブチン!! ちゃんとその時ルフレさんに好きって言った?!」
 至極真剣な表情と口ぶりだったので、本当にそれどころではないのだが、相変わらずの迫力に押されてしぶしぶ当時のことを思い返し始めた。

(まったく、こいつはなんでそんなことを……。好きだ、なんてもちろん言ったに決まって――――)

 はた、と。
 そこでクロムは固まってしまった。それ見たことか、とばかりにリズが鼻を鳴らす。
 行儀が悪いと咎めることもできず、みるみるうちに顔色が青ざめていくのが自分でも分かった。
 リズの言うとおり、確かに妻になってくれと言った時、お前しかいない、というようなことは口にした気がするが。はっきりルフレへの好意を言葉で表したことはなかった、よう、な……。
「……分かった? ルフレさんが倒れたの、お兄ちゃんの所為なんだからね。ちゃんと謝って、誤解を解いてあげて。じゃあわたし行くから」
「いや、ま、待てリズ。俺の求婚がまずかったのは分かったが、それでどうしてルフレが倒れたのが俺の――――ぐふっ!」
「お・ば・かーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
 妹からの淑女らしからぬ渾身の一撃を腹に、叫び声を耳に受け、このイーリスで至尊の座にあるはずの聖王代理は、床にうずくまり悶絶した。

 

 *

 

 カーテンを引いた寝室内は、日中でも薄暗かった。何の匂いかは分からないが、微かに快い香りがする。
 調度品は居間に比べて少なめだが、全体的に女性らしい、柔らかい印象の部屋だ。自警団に寝泊まりしていた頃の、本で埋まっていた部屋とはまた違う。
 足を踏み入れるのは初めてなので、婚約者としてはもっと胸を弾ませたり、逆に緊張したりすべきなのかもしれないが、リズに叩きこまれた拳が尾を引いて、やや前のめりに歩くクロムにはそんな余裕はなかった。
「……リズさん……?」
 人の気配を感じたのか、紗幕の向こうでルフレが身を起こしたような、衣擦れの音がした。遮るものがあるからかもしれないが、やはり倒れた所為だろう、いつもよりか細く頼りなげな声だ。
 クロムは寝台の側まで近寄って足を止めた。顔が見たい、とは思うのだが、悪いことをしている訳ではないのに、何やら後ろめたい。
「あの、何だか大きな声が聞こえましたけど……クロムさんがいらしていたんですか?」
 遠慮がちに開かれた紗幕の隙間から、青白い顔が覗く。あ、と大きく色素の薄い目を見開いたルフレが、反射的に紗幕を閉じようとする。
 その手を咄嗟に掴んで引き寄せると、思ったほど抵抗はなく、夜着を纏った華奢な身体が腕の中に収まった。
「く、クロムさん……っ」
 ルフレはクロムの胸に手を突いて押し返そうとしているものの、元々体格差があることに加えて、今の彼女は病人だ。
 背に腕を回してしっかりと抱きしめれば、こちらの力には敵わない。
 やがて諦めたのか力尽きたのか、くたりと大人しくなる。熱が出ているのか身体が少し熱い。花や香水とは違う、仄かな甘いにおいがした。ルフレの香りだ。
 それをそっと吸い込みながら、クロムは今しがた知ったばかりの事実がもたらした混乱と、どうにか折り合いをつけようと、傍目からは分からないだろうが格闘している真っ最中だった。

(ルフレが、俺のことをちゃんと好きで……でも俺が愛しているとも、好きだとも言わないから、俺にそういう気持ちはないと思い込んでいただって……?)

 思いつく限りの罵声を兄にあびせかけた後、リズがまくし立てた事実は、クロムを驚かせた。
 リズも、クロムが一足早い春を周囲に撒き散らしていたので、時々ルフレが浮かない顔をしていても、彼女をよく思わない貴族に心ない言葉を投げつけられたのだろう、と的外れの心配をしていたらしい。
 ところが今日、たまたまルフレが倒れた際、近くにいたリズがすぐ兄を呼ぼうとしたところ、思い詰めた様子で止められたことで、何かおかしいと感じたというのだ。
 そしてよくよく話を聞いてみれば、ルフレはまったく見当違いの誤解をしていた、と。
 『お兄ちゃんの所為だよ!』と何度も叱りつけられたが、反論できない。
 あまつさえ、ルフレが誰か他の男を想っているのだと勘違いをして、いもしない男に見苦しい嫉妬までしていた。
 自分が情けなさすぎて、どうしたらよいか検討もつかない。いいや、そんなことでは駄目だ、とにかくまず謝って、それから……。
「……あ、の…くろむさ、苦し…、です……」
「っ?! す、すまん!」
 力が強すぎたのか、息も絶え絶えな声が聞こえたので、慌てて腕の力を緩める。
 大事なものを大切に、大切にしようと思うあまり、力加減を誤ってしまうのは、クロムの昔からの悪い癖だ。
 ルフレはいきなり抱きすくめられて、戸惑っているようだった。顔が赤い。熱の所為だと言われてしまえばそれまでだが、少し勇気づけられて、恐る恐る熱っぽい頬に触れた。
 ぴくりと細い肩が跳ねたが、逃げようとする様子はない。
 そのまま何度か撫ぜて、今度は頤を持ち上げる。互いの視線が絡み合った。
 潤んだ瞳の泉に溢れ出ているのは、クロムへの想い、だろうか。
「――――好きだ」
 自然と、口からは素直な言葉が滑り出た。何を言われたのか分からない、というように目を瞬かせているルフレに、さらに顔を近づけて、もう一度同じ言葉を囁く。
「好きだ。お前を、誰よりも……愛している」
「え……」
「お前に妻になって欲しいと言った、一番の理由はそれなんだ。順番が逆になって、すまなかったが……」
「う、そ……」
「嘘じゃない」
「……じょうだん、とか」
「冗談でもない」
「だ、だって……っん…!」
 至近距離の愛の告白の意味がようやく浸透すると、たちまち熟した果実のように真っ赤になったルフレは、忙しなく視線を彷徨わせ、色々とぶつぶつ言っていたが、それを遮ってクロムは初めて婚約者の唇に、自分の唇を重ねた。
 ほんの一瞬、だが目眩がするような、全身に火が付いたような気さえする口づけだった。
 ルフレの手を、自分の左胸の辺りへ導いて、照れ隠しにぼそぼそと呟く。
「……好きじゃなきゃ、俺の心臓はこんなに早く動いていないぞ」
 しばらく首筋まで朱に染めて俯いていたルフレだったが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「クロムさん……」
「……ルフレ」
 何かをねだるように目を閉じた愛しい婚約者に応え、もう一度口づけようとして――――。

「ぐはっ!!!」

 本日二度目の拳が、聖王代理の腹に決まった。

「だったらどうして、最初にちゃんと言ってくれなかったんですか!」
「る、るふれ……っ」
「ばかばかばか、クロムさんのばか! 私がこの半年、どんな気持ちだったか……っ」
 クロムを床に沈めた一撃は、とても心労で倒れたばかりの女性が繰り出したものとは思えない力強さだった。
 
 それからしばらく、薄れそうになる意識を必死につなぎ留めながら、西大陸のとある国から伝わったという『土下座』で謝り続け、夕餉の時間になる頃ようやく許されたクロムだったが。
 婚約披露の日まで、ルフレに触れることを一切禁じられてしまったのだった……。

 

 

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