例年ならそろそろ春の気配を感じ始める頃合いなのに、今年はまだ冬の女神が居座っている。
しばらく暖かい日が続いたと思って気を緩めると、先日のようにいきなり冷え込んで白いものがちらつき、人々を翻弄していた。
今日も気まぐれな女神が冷たい息吹を地上に吹きかけ、底冷えするような寒さだ。
日中は日差しがある分ましだったが、聖都を出発した夕方、太陽が身を隠し始めるとぐっと気温が下がった。
痛いほどの冷たい風を受けながら、クロムは何かから逃げるように今日も館まで馬を走らせる。
館までは、聖都から馬を飛ばして小一時間。無心でいるにはいささか遠い。刺すように冷たい空気も相まって、思考は結局、堂々回りを続けるある問題へと立ち戻って来てしまう。
(恋人ごっこ、か……)
隠密行動には差し障りがあるだろう、派手な髪色の密偵からの、手厳しい言葉。確かにガイアの言うとおりだ。
ルフレは、クロムを男として愛していない。記憶喪失の自分に居場所を与えてくれた恩人として、あるいは共に数多くの苦難を乗り越えたことで生まれた、男女の垣根を超えた親友としての好意はあっただろうが、それも過去形だ。
どんな黄金よりも価値があったルフレの純粋な好意を、深い信頼を、最低な形で裏切ったクロムを、今後彼女がどんな形であろうと愛することは決してない。
まして、命が危ぶまれるほどの大怪我を負わせた男を。
だから今、クロムに向けられる柔らかな微笑みも、恋慕う男を求めるように切なげに揺れる瞳も、名を呼んでくれる甘やかな声も、本来ならクロムには受け取る権利がないものだ。
館で恋人同士として過ごす毒のように甘い時間は、ルフレの記憶がないのをいいことに彼女を欺き続けている、救いようがないほど許し難い男の、愚かなごっこ遊びに過ぎない。
————お前は罪人だ。
ああ分かっていると、蹄が大地を蹴る音にも吹き荒ぶ風音にも遮られず何処かから響く弾劾の声に、クロムは力なく言葉を返す。
太陽が落ちていく。
決してその手に抱くこと叶わぬ遠い、遠すぎる夜のために、もがき苦しむ日輪の断末魔のような残照。
来る日も来る日も、血に似た光を横目に捉えつつ駆けていると、思考はどんどん昏い方へ昏い方へと堕ちていく。
……そう、例えば。
————お前が恋人だという嘘をすんなり信じたのは、やはり彼女に想う男がいたからじゃないのか?
「——————ッ!!」
総身に震えが走り、クロムは思わず手綱を強く引いた。急な静止の合図に愛馬が竿立ちになるのを上手く制御し、体勢を立て直す。
抗議するように上がったいななきに、謝罪の意味を込めてたてがみを撫でてやったが、頭の中は今しがたの思考に占められ、動揺が収まらない。
————以前の彼女なら、お前をあんな風には見なかった。ただ恋人だと言われただけで、ああも恋しい男に向けるような眼差しで、声で、お前に接するのか?
————もしかしたら、サーリャのところで本当の恋人と逢っていたのかもしれない。
————口付けを許してくれないのは、記憶がなくても本能的なところで、お前がその男と『違う』と感じているからじゃないのか……。
太陽が、堕ちていく。
癒えぬ傷口をかきむしり、血を流して沈んでいく。毎日、毎日、決して届かない、手に入れられない相手を恋い続け。
単なる民間伝承だ。
そう思いながらも、罪と知りつつ偽りの檻で愛しい女を囲い、閉じ込め、いつ記憶が戻るかと怯えながらごっこ遊びに耽溺するこの行為に、未来がないことを暗示しているようで。
宵闇が迫りつつある中、クロムはその場からしばらく動くことができなかった。
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