No fear - 2/3

……ルフレ」

 紗幕をそっと開き、クロムのいる方とは反対側を向いて横たわったままの妻の名を呼ぶ。薄い肩が少し震えたがやはり応えはない。

 彼女はまるで何かに怯えるように自分の手を胸元に引き寄せ、固く握り締めている。その様子に、自分の推測が外れではなかったことを悟り、クロムはここしばらくの間浮かれていた自分を殴りつけてやりたくなった。

 婚儀の晩から、とりわけルフレが身篭ったことが分かってからは、家臣達にも半ば呆れられるほど頬が緩みっぱなしだった。自分は世界一幸せな男だと、そう思って。

 ルフレもそんなクロムにずっと優しく微笑んでくれていたから、きっと同じ気持だと思い込んでいた。彼女の抱える根深い不安を気付いてもやれず、俺がお前を守るなどとよく言えたものだ。

 ひとつ、ため息を吐いてそのままルフレを抱き起こし、しっかりと腕の中に閉じ込める。抵抗はなく、子供ひとりをさっきまで腹に抱えていたとは思えないほどほっそりとした身体は、誂えたようにぴたりとクロムの身体へ寄り添った。

…………ルフレ」

 幾度目かの呼び掛けに、俯いていたルフレはやっとのことで顔を上げる。その色素の薄い瞳にはやはり隠しようのない怯えの色があった。出産の疲労によるものだけではないかもしれない、青白い頬。クロムは腕の力を緩め、片方の手で彼女の右手に触れた。今度は大きく全身が震える。

「だめ、です……

「ルフレ?」

「だめなんです……だめ、私があの子に触れたらだめなんです……

 だめ、だめ、と弱々しく首を振るルフレの様子は、ペレジアとの戦の後、クロムの求婚を拒絶したあの時と酷似していた。彼女はあの時も、自分の右手にある痣、対照的に配置された六つ目の印を、何か忌まわしい、不幸を呼ぶものであるかのように語っていて。

――――怖い、のか)

 この印の所為で母は死んだのだと以前ルフレは泣いていた。その印のある手で我が子に触れることが、急に恐ろしくなったのだろうか。

 労るように、柔らかなルフレの髪に指を差し入れる。

 旅から旅へ、まるで何かから逃げるようにひとつの場所には留まれない暮らしをしていたらしい母子。父親がどういった人間なのか、右手の痣が一体何なのか、ルフレの母親は娘へほとんど何も語ることなく帰らぬ人となってしまったという。

 その死が、また大切なものを自分の所為で失うかもしれないと、ルフレの怯えの大きな原因になっていることは間違いないが……

……なあ、ルフレ」

 震える妻の耳元で、語りかけるようにして慎重に言葉を紡ぐ。こんな風になるまで不安を抱え込ませてしまった自分が情けなかった。

 姉のエメリナが暗殺され、腑抜けた人形のようになりながら指揮を執っていたクロムを正気に返らせ、支え続けてくれたのはルフレだ。姉を殺された弟としての私怨ではなく、祖国を荒された王族として冷静にギャンレルを討つことができたのは彼女がいたからこそ。

 それなのに、自分はどれだけのものをルフレへ返せただろうか。

「言ってくれただろう、ひとりで立とうとしなくていい、自分がいると。ひとりで立ち上がれないなら、自分を支えにしてくれていい、二人で立って、そして歩いて行けばいいんだ、と」

 クロムの腕の中で彼女はまだ小さく震えている。かつての彼女の言葉がクロムを掬い上げてくれたように、自分も彼女をどんな不安からも、何者からも守ってやりたい。そんな想いが少しでも伝わるようにと、抱き締めた腕に力を込める。

「お前がその痣のことを不安に思っているのは分かる。だがな、触っただけで不幸が起きるような、そんなおどろおどろしいものじゃあないぞ。それなら、俺にはもう百万回くらいとんでもない不幸が押し寄せてきてる」

「クロムさん……

 手袋に包まれた右手を口元に引き寄せ口付けた。もう何度もこの印に触れたが、クロムに起こるのは幸福なことばかりだ。だから心配ないのだと、お前の手は何かを守ることができる手だと告げるようにもう一度口付け、それから頼りなげに自分の名を呼んだ唇を指先でなぞった。

「ひとりで抱え込もうとしないでくれ。大丈夫だ、俺がいる。お前がどうしようもなく不安で堪らなくなっても、どんな辛いことがあったとしても俺がお前を支える。二人でいればどんなことがあっても乗り越えられるさ。あの子のことも、俺達二人で守ろう。だから……大丈夫だ」

 

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