No fear - 1/3

 ひどい嵐の晩だった。雨風は傷めつけるように強く繰り返し窓を叩き、がたがたと耳障りな音が鳴り続けている。こんな夜はさっさと布団を被って寝てしまうに限る。だがイーリス城内の主だった人間は皆一様に寝間着にすら着替えず、固唾を飲んで奥向きでもっとも警備が強固な一室の扉の前である瞬間を待っていた。

 それは彼――このイーリスの聖王代理という地位に就いているクロムも同じだ。心ここにあらずといった様子で、隣室へと続く小さな控え室のようになっているこの場所で、何をするでもなく歩き回る。

 直立不動の姿勢で微動だにしない騎士から苦言を呈されしぶしぶ長椅子に腰掛けてはみるものの、せわしなく手を組み替えては頭を抱え、また室内をうろつきだす始末。

 そしてまた、扉の向こうから時折苦しそうな女性の声が聞こえてくる度、把手に手をかけ隣室へ向かおうとして、扉の脇に門番のごとく立つ城勤めの長い女官長にぴしゃりと手を引っ叩かれるといった具合である。

 先刻までは彼も隣室にいたのだが、右往左往するばかりでまったく役に立たないからと、いつになく手厳しい妹に追い払われたのであった。

 確かに、いかに聖王代理であっても、神剣の継承者として並々ならぬ武勇を誇っていようとも、こと隣室で進行中の事態にはクロムはまったく無力だ。

 聖王代理妃、つまりは妻のルフレの出産という、ここ数ヶ月の間でもっともイーリスにとって重大な一件に関して。

 落ち着きのない主君をまたフレデリクが諌めようと口を開きかけたその時、分厚い扉を隔ててもよく通る、大きな赤ん坊の泣き声が上がった。途端にこちらの室内もざわつき出し、書記官も記念すべき瞬間を公式記録として書き留めるべく居住まいを正してペンを走らせ始める。

 そんな中、クロムは一目散に隣室へと続く扉へ突進する勢いで向かったが、また女官長に止められてしまう。

 立場上は王とその臣下という形にはなるが、彼女にはごく幼い頃、悪戯をしでかす度にこっぴどく叱られたことが何度もある。彼にとっては頭があがらない存在のひとりで、つい抗議する口調も公務の際の硬いものではなく、拗ねた子供っぽいものになってしまう。

……まだ俺は入れないのか?」

「出産は女性にとって、殿方には想像もできないほど、大変な疲労を伴います。陛下がかように猪のごとく乱入されては、妃殿下のお疲れは増すばかり。紳士的に、優しく、夫として労りの言葉をかけるとお約束下さいますか」

「い、猪……?! あのなあ……っ、わ、分かった、善処する! だから早く入れてくれ!」

 仮にも自国の王を捕まえて猪とはさすがに非道いのではないか、そう抗議しようとしたが眼光鋭く睨まれ、慌てて首をぶんぶんと縦に振って頷いてみせた。この女官長は小柄だが、怒ると滅法怖く迫力があるのだ。第一子が生まれたその晩に、聖王が女官長に説教されていた、などとは書き留めて欲しくない。

 必死になって頼み込むクロムに、また最後のひと押しとばかりに釘を差しつつ、昔とあまり見た目も変わっていない気がするその女官長はやっと隣室へ通してくれたのだが――喜びに湧いている筈の室内には、何故か戸惑いの空気が満ちている。

……あ、お兄ちゃん!」

 寝台の近くにいたリズが、兄の姿を認めて駆け寄って来る。その腕の中には、真新しい白い産着に包まれた、いかにも今生まれたばかりという赤ん坊が真っ赤な顔をしてまだ泣いていた。

 妻の出産、という事態に立ち会うのは当然ながら初めてなのだが、周囲の人間にからかわれつつもひと通りの話を聞いていたので、こういった時は妻が『……あなた』と(勿論ルフレの場合はクロムを名で呼ぶだろうけれど)疲れた顔ながら笑みを浮かべて迎えてくれる、そんな光景を思い描いていたのだ。

 それなのに、クロムを迎えたのは妻のルフレではなく自分の妹のリズで、しかも赤ん坊まで彼女が抱いている。ルフレの姿を探すが、寝台の紗幕はぴったりと閉められていて、その中にいる筈の彼女を確認することはできなかった。ルフレ、とクロムが呼び掛けても返事がない。

「リズ、ルフレはどうしたんだ? まさか身体がどこか……

 万全の体制を整えて出差に臨む王族と言えど、人ひとりの命を産み出すのは命がけだ。万が一ということはある。

 急に不安に駆られ訪ねてみたが、答えるリズは「ううん、ルフレさんは大丈夫。何ともないよ、ただ、あのね」と曖昧に言葉を濁す。

 妹も戸惑っているような、困惑しているような、そんな表情だ。ちら、とリズの視線が出産に立ち会っていた侍女や女官達に向けられる。……何か、彼女達に聞かれたくないことの中に、この些か奇妙な状況の理由があるのだろうか。

……悪いが、少し外してくれるか。何か必要があればすぐに呼ぶ」

 クロムのその言葉に、女官等は相変わらず困惑気味ながらも大人しく退出してくれた。残ったのはクロムとリズ、リズの抱いている赤ん坊、寝台の中から出てこようとしないルフレ、それにルフレの部屋付きにしていて、彼女とも親しい侍女のミア。

「何があった?」

 改めて問いながら、この時クロムはようやく我が子のことをじっくり眺めることができた。髪は彼譲りの青で、全体的に父親を思わせる容貌だが、小さい指の先にちょこんとある爪の形はルフレのものと似ている気がした。

「うーん、私にもよく分からないんだけどね、ルフレさんにこの子のこと抱っこしてもらおうとしたら、ダメ、って言うの」

「駄目、って……何が駄目なんだ?」

「んもう、分からないから困ってるのっ。ミアも理由の検討がつかないっていうし……

「ミア、そうなのか」

 クロムが尋ねると、大人しい性格の、まだ年若い侍女はこくりと頷く。

「は、はい。ルフレ様は初産なので少し不安そうでしたが、それはよくあることですし、生まれてくるお子様のことを本当に楽しみにしていらっしゃいました。どうして抱いてあげようとされないのか、わたしには」

「そうだよー。わたしと一緒に赤ちゃんの靴下編んだり、名前考えたりしてたんだもん。ルフレさん、この子とすごく会いたかった筈なのに」

 二人に話を聞いてみてもまったく原因は掴めないが、とにかく女官達に外してもらってよかったかもしれない。聖王代理妃が、生まれたばかりの我が子を抱くのを拒否した、などという話が原因も分からないままに流布しては色々とよろしくない。

 クロムはもう一度赤ん坊の顔を見つめた。真っ赤な顔をしているのでまだ細かな造作は分からないし、親の欲目かもしれないけれど可愛い。ルフレも、この子が生まれてくるのをクロムと一緒にずっと待っていた筈なのだ。

 以前も、『男の子でも女の子でも、クロムさんに似た、綺麗な青い髪と瞳だったらいいですね』と言っていて――――

……そういえばあの時、ルフレは……

 自分以外の人間の前では決して外さない手袋の下にある、不思議な痣を見つめて一瞬だけ暗い顔をしはしなかったか。

 ――――この痣のせいで……母は幼い私を連れてずっと逃げ回っていたんです。最後には殺されました……ギムレー教団の追手から、私を逃がすために……

 自分の求婚を、一度は泣いて拒んだ彼女はそう言って、だからあなたの傍にいられない、いてはいけないのだと涙を流していた。クロムがひたすら想いの丈を訴え、不安など自分が消してみせると繰り返し囁き込んでやっと頷いてくれたけれど、もし、未だルフレの中からその不安が消えていないのだとしたら。

 自分の鈍感さに唇を噛みながら、クロムは二人の少女にあることを告げるべくゆっくり口を開いた。

 

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!