城の女官に案内され辿り着いた開けた場所は、風が純白と見紛うほど白い花弁を揺らすほかは深閑としていて、冴え冴えとした神聖な空気に満ちていた。
綺麗だけれど、どこか空恐ろしい。
女官はすぐに引き返してしまったので、ひとり残されたルフレは辺りの雰囲気に圧倒され、心細げに新しく誂えたドレスの前で肩掛けをかき合わせる。
ソンシンの歴史の中で、寿命で王位を次代へ譲った王はさほど多くない。小国が乱立するヴァルム大陸は戦乱の嵐が吹き荒れていない時の方が珍しく、また自国内の権力争いも激しかったからだ。
けれどそんなソンシンでも、愛する夫と子供たちに囲まれ、戦が絶えないながらも国を守り抜き、『良き女王』と呼ばれた王がいる。
神竜ナーガへの祈りを日々欠かさなかった女王は、真冬に息を引き取ったが、彼女の愛したこの場所の桜が一夜にして満開になったという。
そんな逸話があるこの地の桜に願掛けをすると、必ず叶う。
教えてくれたのは先程まで話をしていたサイリで、ギムレーを消滅させて再び家族の下へ戻って来ても、未だふわふわと、足が地に着いていないような、夢を見ているような頼りなさを感じているルフレの心情を知っていたのかもしれない。
片時も彼女を離さない夫、クロムを人前では窘めこそしていたけれど、本当はルフレも彼と同じ想いだった。
きつくきつく、息もつけぬほど抱き締めて、夢じゃないと言って欲しい。
目を覚ませば、また、もう薄ぼんやりとしか覚えていないけれど、あの暗い、光の一筋さえ差さない闇の底にいる、そんなことを思って震える心の不安を消し去って欲しい。
勝手なものだと思う。クロムはあれほど止めたと言うのに、それを振り切って、最後は嘘まで吐いて、自らギムレーに止めを刺すことを選んだのはルフレなのに。
それでも、彼と自分の子孫が未来永劫、邪竜の恐怖に怯えることがなくなるのなら。その手段を持つのが、ルフレのみであるのなら。
できることがあるのに、目を背けて自分の幸福だけを選ぶことは……誰が許してくれても、自分で自分を許せなくなると思った。
クロムの妻、子供たちの母親として、二度と胸を張って立つことはできなくなると。
「本当に……夢の中にいるみたいに綺麗……っ?!」
そっと太い幹に手を触れ、囁きかけたルフレの身体は、背後から攫われ誰かの腕の中にしっかりと閉じ込められた。肩掛けが地面に落ちるが、気にしている余裕はなかった。
眼前に広がるのは厚い胸板、鼻孔をくすぐるのは馴染み深い匂い。抱き締める腕の力強さも、全身を包み込むぬくもりも、知っている。ルフレの心が、身体中のすべてが覚えている。
間違えようのない愛しいひとの背に、ルフレはゆっくりと腕を回した。
「……びっくりしました。声くらい、掛けてくださいな」
「すまん。お前が、桜の木に吸い込まれそうに見えたんでな。焦った」
耳朶を震わせる夫の声は、心の奥底に沁み渡るように優しく、胸がかきむしられるような狂おしい情愛に満ちていた。
身体から力を抜き、「もう消えたりしませんよ」と囁き返してうっとり身を預ける。どこかから甘いような香りがするのは、桜だろうか。
はらはらと舞い散る白い花弁の中、クロムに息苦しいくらいの力で抱かれながら、ルフレは少しだけ泣きそうになった。
本当に、たった数刻離れていただけなのに。これでは子供たちにも呆れられてしまう。でももう、二度と離れるなんて考えられない。それだけ、このひとのことが愛しい。
ひとしきり互いの体温を確かめ合った後、クロムは名残惜しげに身体を離した。見ると髪や肩に桜の花びらが付いている。
何だかいつもは凛々しい彼が可愛らしく見え、唇に思わず笑みを乗せたルフレが手を伸ばそうとすると、ひらりと舞う花弁は微笑みの形になった唇にも落ちてきた。
くすぐったくて自分で取ろうとする前に、クロムの端整な顔が寄せられて――――。
「……っ、く、くくくクロムさん?!」
「ん? どうした?」
「ど、どうしたって……」
ぱくぱく口を開け閉めしながら、一瞬の内に耳まで真っ赤になったルフレは、夫を、正確には彼が唇で啄んだあるものを震える指先で差していた。
彼が器用に咥えているのは、桜の白い花びら。ついさっきまでルフレの唇に張り付いていたものだ。
それを、クロムが指ではなく唇を使って取ってくれた……ようだ。まさかそんな方法を使われるとは思っていなかったので、動揺が抑えきれない。
「何をそんなに恥ずかしがっているんだ? 今更、口づけひとつで騒ぐ仲じゃないだろう」
「それは、そう……なんですが……っぁ!」
首筋に感じる甘い熱。そこにも花弁が付いていたのだと、彼が顔を離した後、白いものが風に攫われていったことで知る。
本当に、口で全部の花びらを啄んで取ってくれるつもりらしい。頬にも、うなじにも、鎖骨にも、優しく優しく、温かな感触が触れては離れていく。
ひとつひとつの動きはゆっくりと丁寧で、肌を合わせる前の愛撫とは異なり、ただ羽根が触れているような感触だ。
しかし、帰って来てから一日として欠かさず、毎晩クロムに愛し尽くされ敏感になったルフレの身体は、それだけであっという間に熱を上げた。
「やっ……だめ、です……そんな、手で普通に……っ」
ひとつ花びらを取り去っても、満開の桜の木の下にいるため、次々と舞い落ちてくるので夫の行為は止むことがない。
先ほどのように強く抱き締めてくれるのは嬉しいけれど、いかに二人きりとはいえ、まだ日の高い時分に、閨中での触れ合いを連想させるようなことをされるのは気恥ずかしい。
彼の胸に手をついて、どうにか止めさせようとするが、耳朶を優しく食まれ、「……ルフレ。『約束』は、どうした?」と艶のある声で囁きこまれたことで、雷に打たれたように硬直してしまう。
約束。そう、約束だ。
戻ってから初めての晩、懐かしい寝台で、互いの存在すべてを確かめ合うように身体を繋げながら、ルフレはクロムにある約束をさせられた。
それは、二人きりでいる時、ルフレは決してクロムに逆らわない、というもの。
だからこのひと月の間、執務室でも、閨の中でも、夫がどんな無茶な要求をしてもルフレはすべて従ってきた。
中には以前の自分なら、絶対に拒んだような類のものもあったが、たった一度の嘘がどれほどこの愛しいひとを傷付けたか、重々承知していたから。
だから、もうどこにも行かないと信じて欲しくて、二度と嘘は吐かないと分かって欲しくて、半身たる彼を拒むことはしなかった。
「――――いい子だ」
力を抜いて、約束のとおり、夫のされるがままになる覚悟を決めたルフレの身体を木の幹に寄りかからせ、クロムは微笑った。吐息が肌をくすぐって、また熱が上昇していく。
ご褒美だとでも言うかのように、襟ぐりから覗く谷間に落ちた花びらを咥える際、舌で肌を舐められる。
垣間見えた赤い舌がいやに扇情的に感じられ、堪え切れなくてルフレは視線を上へ流した。
ひらり、ひらり、桜が風と踊る。
見渡す限り一面の白。城の離れから見えた桜は薄紅色をしていて、もう少し色味があったが、ここの桜は純白というのが相応しい白さだ。
まるで雪が降っているようで、春の雪と、ソンシンの人々が桜を呼ぶことがあるらしいと聞いたことがようやく呑み込めた。
「……ぁ、っん……! そこ、は…花はついて、な……っ」
「ああ……悪い。ここの桜は白いからな、お前の肌と見分けがつかん」
「もう、そんな……こと、言って…んんっ!」
焦らされているような触れ方に、もどかしさが募る。桜景色は相変わらず、空恐ろしいまでに美しかったが、もしこれが夢の中の出来事でも、永遠に覚めないでくれるなら、それでもいいとルフレは思った。
※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます