そよそよと穏やかに、しかし絶え間なく吹いていた風が、一瞬目を開けていられないほど強くなった。
風が収まって目を開く。『桜』という、ソンシン特有の花。その薄紅色の花弁が一斉に舞い落ちる様は、ひどく幻想的だった。
木の幹に寄りかかって、何をするでもなく独りぼんやりとしていたクロムは、まるで夢の中にいるようだと思考し、すぐに後悔した。
途端に押し寄せる、恐ろしいまでの焦慮に怖気立つ。
周囲は無人である。遠くから、既に出来上がったバジーリオたちがどんちゃん騒ぎをしている音は聞こえてくるが、入口付近のこの一帯は静かなものだ。
彼自身以外は、誰も、無論彼女……ルフレも、いない。
ひと月ほど前、一度この世界から邪竜と共に消えた後ようやく戻った妻は、現在このソンシンの女王となったサイリに請われて、まだ城の離れに残っている。
だが、ルフレが戻ったこと、それから今日までの記憶すら、彼女を失って正気を手放した自分が作り上げた妄想ではないかという声が消えてくれない。
衝動的に離れへ駆け戻ってルフレを抱き締めその存在を確かめたくなるほど、咲き誇る桜の美しさはこの世のものでないようで、クロムは恐怖した。
彼にとってそれは、最愛の半身が戻るまでの決して短くはない年月、常に共にあった馴染み深い感情だ。
だが、ここには賓客として招かれている立場である。
ソンシンに世継ぎが誕生した、正式な祝いの宴は明日の夜。今日は、女王サイリと親交のある、戦時中の仲間たちだけで赤子の誕生を祝福し、見頃の短い花の美しさを愛でるための私的な集まりではあった。
とは言え、自分の城で、家臣たちや家族しかいない時とは違う。
あくまで今のクロムはイーリス聖王であり、それ相応の振る舞いが求められる。己の裡に巣食う恐怖のままに行動することは憚られた。
「――――桜はお嫌いか、イーリス王」
視界を埋め尽くす、白昼夢を見ているような光景に心がざわめくのを抑えようと、きつく目を瞑ったクロムの耳に、抑揚に乏しい物静かな声が届いた。
「……っ?!」
目蓋を下ろすまで、辺りには誰もおらず、何の気配も感じなかった筈だ。しかし驚きで目を見開き振り返ると、彼がもたれかかっていた隣の樹木の前には、ひとりの男が忽然と姿を現していた。
釦や金具の少ない、ソンシン特有の衣装を痩身に纏った灰色の髪の男には見覚えがあった。生まれたばかりの赤子を抱いて微笑んでいたサイリを、一見無表情でありながらよくよく観察すれば優しい眼差しで見守っていた。確か名前は……。
「い、いや……すまない、イアル殿。桜は美しいが、あまりに美し過ぎて少し怖かったもので」
「それはそうであろうな。毎年目にしている我らでさえ、時に魂を奪われそうだと感じることがあるゆえ」
サイリに似た、少し堅苦しい言葉遣いをする彼女の夫は、クロムの弁明に気を悪くした風でもなく頷いてみせた。
こちらへ近付いて来る足運びや隙のない身のこなしから、武芸を身につけただけでなく、実戦も経験していることが分かるが、今は戦えぬ身らしい。
戦時中、今は妻となった主を帝国軍から逃すため死力を尽くして戦い、その時の怪我が元で二度と剣を持つことは叶わなくなったという。
だがそのような悲哀を感じさせぬ、凪いだ湖面のような眼差しで、イアルはこちらへ視線を寄越した。
「これらは、かつての王が足の不自由な妃のために、いつでも好きな桜を見られるようにと植えさせたものでな。王の念が未だ消えていないから、恐ろしいのかもしれぬ」
「そう、なのか? 良い話のように聞こえるが」
「……その王は、謀反を起こして兄王から王位と、妻を奪った。前の夫を想って泣き暮らす女の足が萎えたのは、一節では王の所為だったと言われている」
「それは……」
「王自身も最期には謀反によって玉座を追われ、庭園に植えた桜、いずれかの根元で果てたらしい。その王だけでなく、我が国の歴史は意外と血なまぐさいのだ。だが――――」
そこで臣下から王配となった男は言葉を切り、静かに微笑した。どことなく印象がサイリの兄、レンハに似ている。それとも、剣の道に生涯を捧げることが多いというソンシンの男は、皆彼のようなのだろうか。
す、と剣を握れなくなった隻腕の指先で、イアルはクロムの背後を指し示す。
「中には例外もある。この先の社を抜けた場所にある桜は格別でな。前置きが長くなってしまったが、姫から王をそちらへ案内するよう仰せつかっている」
「それはありがたいが……」
まだルフレはサイリのところから戻らない。話とやらが長引いているのだろうか。
桜という花は確かに妙なる美しさだが、どんなに美麗なものも、ルフレと一緒でなくては心にいくらも響かない。
しかし城の離れを横目で見遣ったこちらの内心を見抜いたように、「奥方もそろそろ、姫との話が終わり、その場所へ向かっている筈だ」と続けられたので、とりあえず応じておくことにする。
それにしても、妻となった女を、未だに臣下時代の名残を引きずっているのか、姫と呼んでいるのは些か奇異に感じる。
一方で、それがこの挙止端正で堅苦しい男には似合いの気がして、自分とルフレとは違う夫婦の有り様が興味深かった……のだが。
「ああ、人払いはしてあるゆえ、存分にいちゃいちゃされよ」
一瞬、耳を疑ったが、聞こえた変わらず平坦な声は、間違いなく目の前の彼のもので。
「……何と言うか……変わっているな、あんたも」
思わず素に戻り、うっかり普段の口調で呟いてしまったクロムだった。
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