(波の音が……聞こえる……)
よく分からない息苦しさと、首から上を包む柔らかな感触を感じながら、浮き上がるようにしてクロムは目覚めた。いつものように呼吸しようとするのだが、何故か違和感がある。思わず呻くとひんやりとしたものが額に押し当てられた。
足や背中の部分を受け止めているさらりとしているが熱い肌触り。砂漠かと一瞬思ったがだんだんと明瞭になっていく思考に、そういえば異界の海を訪れていたのだと思い出す。
ならば、素肌に直接触れるこれは砂浜の砂だろう。では、自分の頭を支えているこのふかふかとしたものは――とうっすら目蓋を持ち上げたところで、ぼやける視界の中、心配そうにこちらを覗き込む妻の巴旦杏形の瞳と目が合った。
「――――っ?!」
しかし、彼女、ルフレを安心させてやることはできなかった。目に入ったのはそれだけではなかったからだ。
青い、小さな布切れに包まれているまろみのあるそれ。ルキナが生まれたことで膨らみを増し、今ではクロムの手のひらではやや余るほどの大きさになった乳房が、クロムが頭を持ち上げようとするとうまく間に挟まってしまう位置にあった。
おそらく彼女は気付いていないのだろうが、下を向いているので余計に谷間が強調されてしまいひどく扇情的な光景だ。
そしてこの体勢は、よくよく考えてみるとルフレに膝枕をされているということになるのではないか。しかも普段の全身を覆う衣服の上からではなく、彼女の肌理細かな素肌に直接頭を預ける形で。
一度気付いてしまうと心臓はうるさいくらいにどくどくと脈打ち、けれど視線は以前はささやかだったのに、ルキナを産んだ所為か、はたまたクロムが『育てた』為か、いつの間にやらはっきり分かるようになった谷間から逸らせない。
「あ、クロムさんまた血が……」
ルフレがそう言ってクロムの鼻腔辺りに手を伸ばす。す、と赤黒く染まった何かが抜き出された。これが鼻に詰まっていたので息苦しかったのだろう。代わりに彼女が押し当ててくれた冷たい布巾に今度こそしゃんとする。
「……すまん、ルフレ」
「え? 大丈夫ですか? まだ横になっていた方が……」
「いや……いい。問題ない。……ああ、問題ない、うん」
というよりは、このままルフレの肌の滑らかさを感じながら、彼女の動きに合わせて揺れるまろやかな双丘を視界に収め続ける方が危険だ。今ですらクロムの理性は決壊寸前なのだから。
押し止めようとするルフレの手を丁重に断り、ゆっくりゆっくり慎重に彼女の膝から頭をずらす。何故一気に起き上がらないのかというのは愚問だ。好き好んで己の自制心に止めを刺してやる趣味はクロムにはない。
「あの……本当に、なんともありませんか……?」
「あ、ああ。その……すまない。色々と……」
「いえ、そんな……」
互いに向き合う形になったところで、おずおずと気まずいやり取りを交わす。ルフレはまだ恥ずかしいのかルキナやマークに何か言われたのか、真っ赤になって俯いてしまっているし、クロムはクロムで聖王代理たる自分が妻の水着姿を目にして鼻血を噴き倒れてしまったことに、まさしく穴があったら入りたい気分だった。
(いや……むしろ俺が自分で穴を掘って埋まりたい……)
しかも倒れたのは我が子の前である。父親の威厳が粉々に砕け散って跡形もなく粉砕され、足元の砂に混じっているような気がして嘆息する。やけに可愛らしい柄の、優に数人は入れそうな日除けの下なので陽の光は遮られているが、ふと意識がまた遠くなるのを感じた。
「……えっと、クロムさん」
「ん? ど、どうした?」
耳朶を震わせたか細い声にはっとして視線を上げれば、顔を林檎のように赤くしてルフレがこちらを見ていた。胸の前で手を合わせどこか躊躇いがちに囁くような声音で後を続ける。
「やっぱり、おかしいですよね……このかっこ「そんなことはないっ!!!!!!」
「えっ」
「あ、いや、そ、その……何だ……」
力いっぱい力説してしまってからしまったと思った。呆気にとられている彼女の真白い肌を視界で捉えながら急速に体温が上昇していくのがはっきり分かる。気まずい。非常に、気まずい。だがここまで言ってしまった以上、最後まで言わぬ訳にもいかないだろう。
もうどうにでもなれとクロムは覚悟を決め妻の細腰を抱き寄せた。小さな悲鳴。まったく予測していなかったのだろう、子を産んだとは思えないルフレの華奢な肢体は抵抗なくすっぽりとクロムの腕の中に収まる。
「く、くくくくろむさんっ?!」
「……おかしくない」
「あの、でもさっき……」
「……っ、お前が……お前の水着姿があんまり魅力的過ぎたからだ!!」
「えええええええっ」
もうクロムもルフレも顔どころか全身を赤くしていた。ちなみに、二人は言うまでもなく夫婦である。式を挙げてから二年以上は経つ。しかも未来から来たマークの存在によって近い将来、二児の父母になることが確定している。
だというのに初々しい、付き合い始めの恋人同士のような応酬を繰り広げる聖王代理夫妻に、通りすがりの見知らぬ男性客(連れはいない)は強い殺気の篭った一瞥をくれてから波打ち際へと歩いて行った。彼の心境を代弁するならば、「公衆の面前でいちゃついてんじゃねえよこの野郎!」といったところであろうか。
視線で人が殺せるならば神剣の遣い手たるクロムといい勝負だったかもしれない。それくらい、呪わしく恨めしげな視線だった。
夫からの思いがけない言葉に激しく動揺しているルフレは気付かなかったが、その前に男性が妻の水着姿を凝視していたことも、クロムの方では察知していた。夫としては非常に面白くない。
そこでクロムは一計を案じた。腕の中でもがくルフレを押さえつけると、抗議の声も構わず露わになっている素肌に強く吸い付き痕を残していく。
「きゃっ?! な、なにするんです、か……っ…あん! や、ひゃあ……っ!」
首筋、肩、鎖骨、胸元。
次々と紅い華が咲いていく。さながら所有の印のように。閨の中でするのと同じ行為だが、衣服を着れば隠れてしまう普段とは違い、今彼女の肌を隠す布地は胸元と腰の周りしかない。
よって、このまま出歩こうものならクロムが付けた痕は余すことなく皆の目に晒されてしまうだろう。彼女にとってそれは耐え難いことの筈だ。
「……よし」
「な、なにがよしなんですかなにが?!」
全身を薄桃色に染め涙目になりながら、ルフレはぽかぽかとクロムの胸板を叩く。思わず口元が緩むのを感じた。可愛らしい抵抗だ。
ちらりと横目で見てみると、すぐ傍には濡れた身体を拭く為のものなのか大きめのふかふかとした拭布が置かれている。それを掴み、「クロムさんの馬鹿! ばかばかばか!!」と涙ぐんでもがいている彼女の身体に巻き付けてやった。
「今日はそれを羽織っていろ。泳ぐのは禁止だ。いいな?」
「う、うぅ……納得いきません……絶対納得いきません……!」
「い・い・な?」
「……はい……」
※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます