イーリス聖王代理クロムは焦っていた。非常に、この上なく、とてつもなく焦っていた。
時は春のうららかな日差しが気持ちのよい昼下がり、処は勝手知ったるイーリス城、庭師の手で植えられた愛らしい花々が慎ましやかに咲く中庭である。
それで傍にいるのは、まだ国民への発表を済ませておらず内々ではあるものの、この度めでたく婚約者となった愛しい恋人のルフレ、とくれば焦る要素など欠片もなさそうなものだが、兎にも角にもクロムは焦っていた。
さて、文字だけではなにぶん彼の焦りの原因が分かりかねるであろうからここで解説しよう。
クロムは今婚約者のルフレとともに中庭を散策していた。仕事は山積みだが、何しろ婚約したてであるから少しでも執務を離れ二人きりで過ごす時間が欲しい、というのが正直な本音だ。
どうにか互いにうまく予定を調整し時間を捻出して、他愛のない会話をしながら歩いていて。多分きっかけはどうということもないのだ。ただクロムに逢えて、話せて、嬉しくて仕方がないといった様子で、ふと言葉を交している最中にルフレがほわ、と幸せそうに微笑んだ。
そう、たったそれだけなのに、クロムはもう婚約者が愛しくて愛しくて堪らなくなり、以前の黒いローブではなく、彼が悩みに悩み抜いた挙句贈ったワンピース型の簡素な外出用ドレスを身に着けていたルフレの、ほっそりとした肢体を力いっぱい抱き締めてしまったのだった。
はっと気付いた時には腕の中で愛しの婚約者は硬直しており、しまったとこっそり様子を伺えば耳や長い髪の間から覗くうなじが真っ赤になっているのが分かった。
それを見たクロムもかっと全身が熱くなってしまい、やたらと良いにおいもするものだから、意識すると同時に心音がうるさいくらいに響いてくる。
(やわらかい……じゃ、ないぞクロム! ど、どうすればいいんだ……?!)
本能的な衝動に突き動かされ抱き締めてしまったものの、そこからどうしたらよいのか。
ここで甘く甘く恋人の名前を囁き込み、ゆっくり顔を上げさせて口付ける――――といった芸当は、この時のクロムには期待するだけ無駄であった。
どれくらいかというと、『うーん、ガイアさんが丸一日甘いもの断ちできる方に全財産を賭けるのと同じくらいかな』、『そうですわね、カラムさんのあの、気配遮断魔術を使っているとしか思えないほどの影の薄さが改善されるくらい、ですかしら?』――――どちらも、彼をよく知る淑女二人の証言である。
曲がりなりにもイーリ聖王国の王子として生を受けたクロムは、近侍のフレデリクにより女性に対する振る舞いに関して、王族男性として十分満足のいくものに教育された。
妹姫のリズなど、身近な女性になればなるほど異論は出てくるようだが、それでも王族として公的な振る舞いを求められる場面、そう深くない、当たり障りない会話で済む場面ではそつなく振る舞うことが出来る。鍛えられた長身や精悍な面差しも手伝い、成長するに従い胸をときめかせる令嬢や貴婦人は増える一方だ。
だが姉の力になりたいとの一心で色恋沙汰とは縁のないまま成人を過ぎてしまった彼は、『好意を持った女性』に対する振る舞いに限っては、まったくもって落第生だと言えるだろう。
後々、未来から来た娘にルフレとの馴れ初めを尋ねられることになるのだが、求婚の前後を思い返して自分のあまりの初心さに内心悶絶し、父親としての威厳を保つ為に苦労することになる。
しかしこの時のクロムはそれを知りようもないので、その後しばらくしてなかなか戻らない兄を呼びに来たリズの声が聞こえてくるまで、暴れそうな心臓を持て余しながら婚約者を抱きしめ続けたのだった。
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