Good night, my dear - 2/3

 

「クロム、さん……」

 宵闇の中、吐息と共に漏れでた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
 理由は問うまでもなく分かっている。不安なのだ。
 クロムの懇願と言い換えてもいい必死の求婚を受け入れてから、これほどまでに長い間彼と離れたのは初めてのことだった。
 唇を噛んで、右の掌に視線を落とす。物心ついた時から消えることなく、むしろ成長するにつれてどんどんくっきりと、対照的に並んだ六つの目のような形を取るようになった痣。どこか禍々しく感じられるそれを、母は誰にも見せてはならないと幼いルフレに繰り返し言い聞かせた。
 真っ暗で怖い、夜よりも深い闇が、あなたを捕まえてしまうから、と。詳細を尋ねても、あなたが大人になったらね、とはぐらかされてばかりで。
 ……結局、真実を伝えないまま、母は逝った。
 もうすぐルフレが十六の誕生日を迎えようかというある日、次の街へ向かう途中で襲いかかってきたギムレー教団の男たちから、ルフレを守るために。
 森の中、大きな木の洞へ追い縋るルフレを強引に隠し、形見になってしまったペンダントを握らせて、母は男たちと対峙した。
 その時、とぎれとぎれに聞こえてきた会話で、ようやく母がずっと逃げ続けていたのは彼らからだったと知ったのだ。
 まったく無関係の母娘を、教団の人間が追い回すとは思えない。それに母は、ギムレー教やペレジアという国について熟知していた。今になって思い返せば、不自然なほどに。
 そして、暗がりの中でも闇に沈まず、むしろ自ら周囲の闇を取り込んで怪しく蠢くようなこの六つ目の印。

(この痣は……私は、もしかしたら――――)

 考えれば考えるほど嫌な想像ばかり浮かんでしまうのは、彼がルフレの側にいてくれないからだ。

 ――――お前が何者でもいい、ただ俺の側にいてくれ。

 自分の素性への不安と疑念を泣いて訴え、一度は求婚を拒んだルフレを、クロムは折れるくらいに抱きしめてそう言った。
 不安など、忘れるくらい幸せにすると。
 その言葉の通り、クロムは沢山のものをルフレにくれた。
 母を亡くしてから、ずっとひとりきりだったルフレに、仲間を、家族を……誰かを愛しいと思う気持ちを。
 泣きたくなるくらいの、幸福。
 そうしてまた、ルフレの身体には新しい幸せの源――クロムとの間に授かった命がまた宿っている。

(こんな幸せが、私に許されていいんでしょうか……)

 ……自分は、こんなにも弱いのに。
 もしかしたら、彼の側にいる資格がないかもしれないのに。
 

「――――おかあさま」
 幼い声とともに、夜着の裾を引かれる。
 はっとして見遣れば、もう部屋に下がって休んでいるはずのルキナが、こちらを見上げていた。
 乳母は見当たらないので、また抜けだしてきたのだろう。
 王族は、元来乳母の手で育てられるもの。クロムやリズがそうだったように、ルキナもよちよち歩きもまだ覚束ない頃から、ルフレやクロムとは離れた専用の子供部屋で眠っていた。
 だが、ようやっと三つになろうかという娘は、よく怖い夢を見たと言っては、乳母や侍女たちの目を盗み、教えられたばかりの隠し通路を使って両親の寝台にもぐり込む。
 きっと今晩もそうなのだろう。昏い渦に飲み込まれそうになる思考を振り払うように、ルキナと視線を合わせてしゃがみ込む。
「まあ……ルキナ。どうしたんですか? 怖い夢を見てしまいましたか?」
「おかあさま、どこかいたいのですか?」
「えっ?」
 いつもの通りに、夢の内容を尋ねて。
 どんな夢を見ても大丈夫ですよ、お父様とお母様が守ってあげますからね、と。
 そう、優しく伝えるはずだったのに。まだたどたどしい口調でルキナが口にしたのは、母親を気遣う言葉だった。まん丸の大きな瞳が、まるで見えないルフレの怪我を探そうとでも言うかのように、じっとこちらへ向けられている。
 乳母に連れられた娘が、就寝の挨拶に来たのは夕食後間もない頃。今日は眠気が訪れるのが早かったらしく、半分うつらうつらとして、けれども頑張って覚えたての丁寧なお辞儀を披露してくれたのを、微笑ましく見守ったのは記憶に新しい。
 その時は、いつもどおりに振る舞えていたと思うのだけれど。
 知らず識らずの内に、先程までの出口のない懊悩が表情やちょっとした仕草に出てしまっていて、それを敏感に感じ取ったのかもしれない。
 こんな幼い娘に心配させてしまうなんて駄目なお母様ですね、と内心で自分を叱りつつ、努めて何でもないように笑って見せる。
「ふふ、どうしたんですか、急に。お母様は大丈夫ですよ」
「でも……おとうさまがいってきます、ってしてから、ずっといたいいたいっておかおです」
「……ルキナ」
 すぐには、それ以上の言葉を返せなかった。先程から一度も逸らされない愛娘の目線はひどく真剣で、始めは疑問の形を取っていたが、ルフレの変調をほとんど確信しているらしかった。
 ルキナは、聡い子だと。
 常日頃、夫とも皆とも話していることだが、これほどまでとは思わなかった。ひっそりと、娘には気取られないように息を吐く。
 ルフレの不安。
 右手の痣と、それを必死に隠し、何かに怯えるように逃げ続けていた母。その母を殺した、ギムレー教団の人間。
 それらすべてに起因する、自分自身の出生への、半ば確信に満ちた昏い疑念を、感じ取ってしまうほどに。
「……痛くは、ありません。ほら、どこも怪我なんてしていないでしょう?」
「じゃあ、だれかにいじめられたんですか」
 少し大げさに両手を広げてみせたルフレにも、ルキナは追及の手を緩めない。今度は質問の形をとりつつも、疑問ではなく、断定系だった。
 しかも、形の良い眉をきりりと吊り上げて、ルフレが誰かを名指せばそのまま、最近お気に入りのおもちゃの木刀で斬りかかりに行きそうだ。
 

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