この想いは許されますか? - 2/2

 

「……ああ、そういえば、渡したい物があったんだ」
 夕食後、いつものように談笑していると、ふいに何かを思い出したようにクロムが言った。
 何やらごそごそと黒に近い濃紺の上衣を探り、小さな丸い容器を取り出す。携帯用の軟膏が入っているものに似ているが、それにしては暖色系の柔らかな色合いや、細かい花模様の凝った装飾などは、軟膏のような実用品には似つかわしくない気がした。
 頭の中に疑問符を浮かべるルフレをよそに、彼は蓋を開け、仄かな紅色に色づいた中身を指で掬い、「ほら」と差し出す。
「へ?」
 彼の意図したところが分からずに、間抜けな声を出してしまったルフレを笑うでもなく、クロムは至って真面目な顔で指を突き出したままだ。
 ちら、と脳裏を過ぎったのは、利き手が使いづらそうだから、と彼が手ずから匙を使い、こちらの口元まで運んで食べさせてくれようとした時の光景だ。
 まさか、色がついた固めの軟膏に見える今回のそれも、食べ物か薬で、直接舐めろと言われているのだろうか。
 いや、いくらなんでもそれは……と動揺と混乱の間を行ったり来たりするルフレに、しびれを切らしたようにもう一度クロムが指を動かす。
「何を考えているか知らんが、これは紅だ。ただ薬効があって、乾燥やひび割れにも効くらしくてな。この間、唇がかさついて困る、と言っていただろう?」
「それは、言いました……けど」
 だからと言って、何故クロムが指にそれをつけて、自分の方へ差し出しているのか。
 彼がしようとしていることについて薄々想像がつき始め、このまま上掛けを被って寝てしまいたい衝動に駆られる。
 しかしクロムは逃がしてくれなかった。「俺が塗ってやる」と怪我に障らないようごく軽くルフレの肩を押さえ、紅を掬った指先が慎重に唇へ触れていく。心拍数が一気に跳ね上がった。
「く、くろむさん……っ」
「大人しくしていろ。動くとはみ出るぞ」
 右から、左へ。
 剣を扱う乾いた、硬い指が唇をゆっくりなぞる。
 彼の指が触れたところから、じんと甘い痺れのようなものが全身へ広がって、言われるまでもなくルフレは動けなかった。
 代わりに心臓は爆発しそうなくらい激しく鼓動を打ち鳴らしていて、その内肌を破って飛び出してきそうなくらいだ。
 薬効があると言った通り、微かにツンとする薬草のにおいがしたが、そんなものではちっとも落ち着かない。
 始めは自分の唇の上を少しずつ往復するクロムの指を見ていたのだが、存外繊細な動きが目の前に大写しになり、するとくすぐったい感覚も増大するようで堪えられず視線を逸らして。
 けれどクロムの方を見ても、吐息が時折頬を掠めるほど近く顔を寄せている彼の、吸い込まれそうな深い藍の瞳を見ていると余計心臓が危ない。
 それに、じっと彼ばかり見つめていたら、まるで口づけをねだっているようではないか。
 そういう訳で、苦肉の策としてルフレはきつく目を瞑っていることにした。
 うっすら紅潮した頬も相まって、その方がよほど恋人に甘えて口づけをせがんでいるように見えることは気付いていない。
 やがて途方もなく長く感じられた時間の後、クロムが見せてくれた鏡の中には気恥ずかしさのあまり涙目になり、顔を赤らめた自分が映っていた。
 唇に赤みがさした所為か、大分健康そうに見える。……頬が上気しているから、というのもあるだろうが、クロムは満足そうだ。

「ああ……いいな。綺麗だ。これは置いていくから、乾燥が気になったら塗るといい。使い終わったら店で中身を補充してくれるらしいから言ってくれ」

「……はい……ありがとうございます」

 手渡された小さめの容器は、手元で見ると細工の緻密さがより詳細に見て取れる。使い終わったら、丁寧に洗えばちょっとした小物を入れてもよさそうだ。おそらく、そういう用途も想定して裕福な女性客に売っているのだろう。
 クロムはルフレが目覚めてから、事あるごとに本や、このように細々としたものを持ってきてくれる。おそらく、貴族ではなく天涯孤独で、彼と出会う前は旅から旅への暮らしだったルフレには到底手が届かないようなもの。
 ……自分に、受け取る資格はあるのだろうか。
 クロムに妻がーーもしかしたら子供も?ーーいるのなら、この想いは封印してしまわなければいけないのではないだろうか。
 行くあてなど当然ないけれど、怪我が治って、体力が戻ったら……反対されるだろうから、クロムには内緒で、どこか遠くへ行くべきなのかもしれない。
 だから、自分たちの関係が誰に対しても恥じることがないものなのか、それとも罪深いものなのか、確かめる必要がある。
「ーーーーあの……クロムさん」
「ん? ……どうした、ルフレ?」
 だが勇気を出して口を開いたルフレは、クロムに優しく尋ね返されて口ごもった。誰かに後ろから目隠しをされたように、一瞬目の前が暗くなって、思考が曖昧になる。
 
 
ーーーー駄目。何も訊かないで。何も知らないでいて。……このひとの側に、いたいんでしょう?
 
 
「……ルフレ?」
 はっとして顔を上げると、心配そうなクロムの顔が驚くほど近くにあった。
「疲れたか? ……すまん、長く話し過ぎたな。今日はもう休んだほうがいい」
「あ……で、も……」
 もう少し、と言いたかったが頭の中に霞がかかったようで、何を話そうとしていたのかうまく思い出せない。喉の奥で何かがつかえてしまったように、急に紡ぐ言葉まで辿々しくなってしまった様子に、クロムは顔色を変えて有無を言わせずルフレを寝台に横たわらせた。
 大きくて、ごつごつした手が頬にかかった髪をそっと払って撫でつけてくれる。それだけでなく湯たんぽの位置を直してくれたり、首元が冷えないように毛布や上掛けをきっちり上まで引き上げてくれたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
 けれどもそう時間がかかるものではないから、一通りルフレの寝支度を整えるとクロムは名残惜しそうにしながらも帰る様子を見せ、思わず彼の袖を掴んでしまう。
「…………明日、また来る。身体を冷やさないでゆっくり休めよ。……おやすみ」
 優しい声、優しい眼差し。頬に触れる手のぬくもり。

 ぼんやりする意識の中、胸が苦しくなるような切なさだけが残る自分の心を持て余しながら、ルフレは恋人を見送った。

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