「……ああ、そういえば、渡したい物があったんだ」
夕食後、いつものように談笑していると、ふいに何かを思い出したようにクロムが言った。
何やらごそごそと黒に近い濃紺の上衣を探り、小さな丸い容器を取り出す。携帯用の軟膏が入っているものに似ているが、それにしては暖色系の柔らかな色合いや、細かい花模様の凝った装飾などは、軟膏のような実用品には似つかわしくない気がした。
頭の中に疑問符を浮かべるルフレをよそに、彼は蓋を開け、仄かな紅色に色づいた中身を指で掬い、「ほら」と差し出す。
「へ?」
彼の意図したところが分からずに、間抜けな声を出してしまったルフレを笑うでもなく、クロムは至って真面目な顔で指を突き出したままだ。
ちら、と脳裏を過ぎったのは、利き手が使いづらそうだから、と彼が手ずから匙を使い、こちらの口元まで運んで食べさせてくれようとした時の光景だ。
まさか、色がついた固めの軟膏に見える今回のそれも、食べ物か薬で、直接舐めろと言われているのだろうか。
いや、いくらなんでもそれは……と動揺と混乱の間を行ったり来たりするルフレに、しびれを切らしたようにもう一度クロムが指を動かす。
「何を考えているか知らんが、これは紅だ。ただ薬効があって、乾燥やひび割れにも効くらしくてな。この間、唇がかさついて困る、と言っていただろう?」
「それは、言いました……けど」
だからと言って、何故クロムが指にそれをつけて、自分の方へ差し出しているのか。
彼がしようとしていることについて薄々想像がつき始め、このまま上掛けを被って寝てしまいたい衝動に駆られる。
しかしクロムは逃がしてくれなかった。「俺が塗ってやる」と怪我に障らないようごく軽くルフレの肩を押さえ、紅を掬った指先が慎重に唇へ触れていく。心拍数が一気に跳ね上がった。
「く、くろむさん……っ」
「大人しくしていろ。動くとはみ出るぞ」
右から、左へ。
剣を扱う乾いた、硬い指が唇をゆっくりなぞる。
彼の指が触れたところから、じんと甘い痺れのようなものが全身へ広がって、言われるまでもなくルフレは動けなかった。
代わりに心臓は爆発しそうなくらい激しく鼓動を打ち鳴らしていて、その内肌を破って飛び出してきそうなくらいだ。
薬効があると言った通り、微かにツンとする薬草のにおいがしたが、そんなものではちっとも落ち着かない。
始めは自分の唇の上を少しずつ往復するクロムの指を見ていたのだが、存外繊細な動きが目の前に大写しになり、するとくすぐったい感覚も増大するようで堪えられず視線を逸らして。
けれどクロムの方を見ても、吐息が時折頬を掠めるほど近く顔を寄せている彼の、吸い込まれそうな深い藍の瞳を見ていると余計心臓が危ない。
それに、じっと彼ばかり見つめていたら、まるで口づけをねだっているようではないか。
そういう訳で、苦肉の策としてルフレはきつく目を瞑っていることにした。
うっすら紅潮した頬も相まって、その方がよほど恋人に甘えて口づけをせがんでいるように見えることは気付いていない。
やがて途方もなく長く感じられた時間の後、クロムが見せてくれた鏡の中には気恥ずかしさのあまり涙目になり、顔を赤らめた自分が映っていた。
唇に赤みがさした所為か、大分健康そうに見える。……頬が上気しているから、というのもあるだろうが、クロムは満足そうだ。
「ああ……いいな。綺麗だ。これは置いていくから、乾燥が気になったら塗るといい。使い終わったら店で中身を補充してくれるらしいから言ってくれ」
「……はい……ありがとうございます」
ぼんやりする意識の中、胸が苦しくなるような切なさだけが残る自分の心を持て余しながら、ルフレは恋人を見送った。
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