ある一夜
クロムはしんとして静かな、僅かな篝火が灯されただけの薄暗い回廊を歩く。気は急いていたがあまり足早に歩みを進めては、石造りの床と踵がぶつかり合う硬質な音が大きくなってしまう。燭台も何も持ってはいないが、夜目がきくクロムにとってはさほど支障はないようで、すいすいと迷いなく曲がりくねった道を進んでいく。
しかし交代で王城を巡回する兵士とは一度も顔を合わせることも、遠くにその姿を見ることもない。当然だった。兵士の配置にはクロムも勿論目を通している。目指す棟まで警備が一番手薄になる時間帯を狙って経路を選んでいるのだから。生まれた時からこのイーリス城で育ったクロムにとっては庭のような場所だ。幼い頃、始めはひとりで、リズがよちよち歩きを始めるようになってからは二人で探検して回ったので抜け道も近道もよく知っている。
逸る気持ちを抑えるのは難儀だ。だがここで見咎められては意味がない。皆が寝静まる時間であっても、何があるか分からないのだ。こんな深夜に、女性の部屋を訪うのはあらぬ噂を招く。それどころか、クロムがしようとしているのは明るみに出れば確実に非難を免れ得ない行為なのだ。そして糾弾を受けるのはクロムではない、ルフレだ。
やがて日中の倍以上はかかったように感じた長い道のりが終わり、クロムはある客室の扉の前に立つ。今ではもう一時的な客室ではなく、彼女専用の部屋のようになっているそこは、客室のある棟の中でもとりわけ立派な作りをしていた。
ひとつ息を吸い、ゆっくりと吐き出してから目の前の分厚い扉を規則的に二回、小さく叩く。その後間を置いてもう一度。……二人で決めた、これが合図だ。するとあまり音を立てないようにとの配慮か、明るい時分よりさらにゆっくりと扉が開いた。辺りを見回してから素早くその隙間に滑り込む。
くろむさん、と弱々しくルフレがクロムの名を呼んだ。
窓から差し込む月明かりの所為か、夜着に身を包んだルフレの姿は目を凝らさずともよく見えた。不安にか淡い色彩の瞳を揺らす彼女は、夜着の上に肩掛けを羽織っただけの随分な薄着だった。くすんだ真珠色の夜着は生地自体も薄い為、身体の線がうっすらと透けて見える。胸元は鎖骨の下まで大きく露わになっていて、白い肌は陽の光の下で見るよりも一層艶かしい。
堪らずに、クロムはその華奢な肢体を掻き抱いた。鼻腔いっぱいに広がる彼女の香りに目眩がする。
やはり静かに閉めようとしていた扉が支える手を失ってやや勢いをつけたのを、ルフレを抱いたまま背中で受け流そうとしたのだが失敗し、存外大きな音が出てしまう。
びくりと腕の中に閉じ込めた彼女の薄い肩が跳ねた。もうクロムはルフレのことしか頭にないのに、彼女はまだ誰かに今夜のことを知られる方を怖れているようだ。そのことにどうしようもなく苛立って、無理矢理口を塞いだ。
「……んんっ……!」
久々に触れる愛しい女の唇は極上の果実のように柔らかく、甘く、クロムを酔わせる。そのまま更に深く口付けたいと暴れる本能を宥めすかし、上唇をちろりと舐めるだけに留めた。閉じたままの唇を割って強引に口腔内に押し入ることもできる。だがいつも彼女を求めるのはクロムの方からで、今宵の密かな訪問を半ば押し切ったのもクロムからだ。だから、どうしてもここでルフレから求めて欲しかった。
そのクロムの痛切な願いに応えるように、何度か焦らすように唇を舐めていると僅かにだが合わさったままの唇が開かれ、おずおずと彼女の舌が差し出されてきた。すぐにでも吸い付きたかったがぐっと堪え動かずにいると、ぎこちないながらもクロムが以前教えた通りにそっとクロムの舌に自分のそれを絡める。
「……ん……んぅ……」
その間、クロムはずっと目を閉じずルフレの羞恥に染まる表情をつぶさに観察していた。白い頬を赤らめ、長い睫毛を伏せて淫らな口付けを自ら仕掛ける(誘ったのはクロムだが)彼女の姿をこうして見られるのはクロムだけだ。目蓋を伏せるなどと、そのような勿体ない真似ができるはずがない。
拙い彼女の舌の動きは、それでもクロムの理性を灼くには十分過ぎた。しっかりと腰に回していた手の片方でルフレの頭の後ろを支えると、今度は激しい動きで彼女の口腔内を侵しひたすらルフレの甘やかな唇を貪る。
「……っぁ……はぁ……んんっ…………っん……!」
互いの舌が絡む濡れた音。先刻とは比べ物にならない水音と押し殺した彼女の喘ぎ声、次第に蕩けていく表情が、クロムの中に燻る劣情をひたすらに煽り立てる。
クロムからの抱擁や口付けを受けるルフレには、いつも怯えや躊躇いがあった。それは今宵も同じで、だからこそ彼女の怯えも躊躇いも溶かすように、さらなる快楽を与えようと、貪る舌の動きは止めぬまま近くの壁にもう大分力が入らなくなったルフレの身体を押し当てて、布の上からまろみを帯びた双丘を揉みしだく。始めは優しく、やがて少し力を強めて。
彼女の身体のことは隅々まで知っている。弱い部分も全部。新たな刺激が加わって、荒い息の彼女は喉の奥でくぐもった嬌声をあげた。それに気をよくし、もっと敏感な部分へ触れようと夜着の裾から手を滑り込ませ太股に這わそうとしたところで、クロムとの口付けに酔いしれていた筈のルフレが力の篭っていない手で弱々しくクロムの肩を押した。何か言いたげにしているので、ずっと塞いでいた唇を解放してやる。
「……はぁ……ぁ……」
「……どうした?」
苦しげに荒い呼吸を整えているルフレの瞳は大分クロムが与えた熱に潤み、快楽で蕩けていたがまだ僅かに理性が残っているようだった。つ、とどちらのものともつかない唾液が口元を伝っていくのを舌で舐めてやり、ルフレに尋ねると彼女は無言のまま、緩慢な動作で首を振った。言葉を紡ごうとしているが、上手くいかないらしい。
しばらく彼女の息が落ち着くのを待っていてやる。本当は、愛しい女が乱れる様を目の当たりにし続けてクロムは限界ぎりぎりだったが、あの夜以来、彼女の意思を無視したことはしないと決めていた。
「……こ、こ……いや、です……。へやに……つれ……くださ、い……」
熱い吐息と共にそう小さく囁く彼女にクロムはまた焦れる。
(……まだ、そんなことを)
思わず眉を顰めたが、ルフレの願いとあらば叶えてやらない訳にはいかない。おそらく、部屋の入口に近いこの場では外に音が漏れてしまうかもしれないと思ったのだろう。クロムよりもずっと、ルフレは二人の赦されない関係が、誰かに知られてしまうのを恐れていた。
それはルフレ自身の為ではなく、何より聖王であるクロムの為だ。
イーリスの聖王家において、側室や愛妾を持つことは、決して褒められたことではないが、聖痕を受け継がせることを考えればある程度は認められていた。だが既にクロムには、聖痕を持ち、ファルシオンを扱うこともできる娘のルキナがいる。そしてクロムはこれまで野心を持ってクロムの側室の地位を狙う貴族達へ、その聖痕の継承者が生まれていることを盾に、さり気なく、中にはあけすけに娘や一族の女性を差し出そうという申し出を断り続けてきた。
だがルフレとの関係が明るみに出れば、もうそうした申し出を頑強に断り続けることは難しくなる。そうすれば、かつて歴史の授業でほとんど眠りながら聞いた、国を傾けた者もいたという幾人かの聖王と同じ轍を踏むことになってしまうだろう。
色恋沙汰で国を乱すなど愚かなことだと、かつての何も知らないクロムは思っていたが、今こうして誰より愛する女性を手放せずにいる自分は彼等とそう変わらない。
この部屋を訪れる時はいつも指輪を外していたが、だからといってこうした事実が消えてなくなる訳ではないのだ。
そのことに忸怩たる思いを抱きつつも、ルフレの望み通り、ひとりで立っていられないほど力の抜けた彼女の膝裏を掬い横抱きにしてクロムは歩き出した。向かうのは扉で繋がったもうひとつの部屋だ。
ふと、ルフレを抱き上げて歩くこの状況があの夜に似ているなと思った。赦されない秘密を、互いに分かち合うようになったあの冬の夜。けれど何より違うのは、あの時のルフレが力が入らないながらも必死に抵抗していたのに対し、今クロムの腕の中でぐったりとしている彼女はむしろ決して離さないで欲しいとでもいうかのように自分を抱く男の首に弱々しく縋り付いていることだ。
扉を足と肘で器用に開き、寝室へと入る。天蓋付きの寝台の紗幕は既に半ば開かれていて、迷いなくそちらへ近付いて行ったクロムは紗幕の隙間から優しく優しく、ルフレを寝台の上に横たえた。
「クロムさん……」
先刻の執拗な口付けで濡れて光る艶かしい唇が、何かをねだるようにクロムの名を呼ぶ。それでも、場所を移しても未だに彼女の表情には拭いようのない怯えがあった。それを完全に消してやることはクロムにはできない。聖王であることは既にクロムの一部で、姉から託されたこのイーリスを捨て去ることはどうしても不可能だった。
けれど、クロムはルフレを喪えない。一度この手からすり抜けて、ようやく取り戻した愛しい半身。再び彼女を喪失したなら正気でいられる自信がない。もう、二度と離せない。ならば忘れさせるしかない。今、この時だけでも。
「ルフレ……愛してる……ルフレ……」
柔らかな髪を掻き上げると現れた額に、頬に、顕になった首筋に鎖骨にと口付けの雨を降らせながら、絶え間なく彼女の名を呼ぶ。愛していると囁く度、夜気の冷たさの所為だけでなく震えるルフレは、今何を思っているのだろう。
触れ合わせた熱い肌から、互いの想いが伝わればいいのにとクロムはやや性急な手つきでくすんだ真珠色の、光沢のある夜着に手を掛けた。
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