「クロムさん、まだ決まらないんですか?」
寝台に横たわったままの妻からそう声を掛けられて、聖王代理クロムは本日何度目になるか分からない大きな溜息を吐いた。そして険しい顔で睨みつけていた紙をぐしゃぐしゃと丸め、ペンと共に放り出す。軽い音を立てて、紙くずは床に幾つも散らばった同様のそれにぶつかり跳ねて落ちた。
それを見て、白い面に疲労の陰が濃い妻のルフレが、困ったような表情を浮かべるのが視界の端に映る。ちら、と窓の外を見ればもう朝だった。陣痛が始まったということで、聖王代理妃の出産、つまりは世継ぎの誕生という一大事に万全の準備を整えていた侍医や女官達が集められたのは昨夜遅く。
女性の出産など立ち会ったこともなく、知識もなかったクロムはまったくの役立たずなのだが、妻が自分との子を産むべく想像もできないような苦痛を堪えてくれているのだ。当然寝ずに立ち会い、母子共に何ごともなく無事生まれたところまではよかった。本当にそれはよかったのだけれど。
「……早くこの子の名前を決めてあげないと、皆さんも困ってしまいますよ?」
「わ、分かっている!」
「クロムさんが自分で考えて生まれる前に決める、と言っていたので皆さん待ってくれていたんですから。それなのに……」
「今! 今考えてるんだ……っ。少し待ってくれ」
ルフレが答える代わりに、赤子用のベッドに寝かされた、産まれたての愛娘が泣きだした。寝台から降りようとする妻を制し、父親一日目の危なっかしい手つきでどうにか抱き上げ運んでやると、同じく母親一日目の筈の彼女は、もう危なげなく赤子を抱き取り、早速あやしてやっている。
優しく「あなたのお名前はなんでしょうねー?」とルフレが語り掛けている赤ん坊には、実はまだ名前がなかった。
通常、聖王の第一子ともなれば祖先の名前からそのまま名付けたり、身近な親類や両親のどちらかから一字貰ったりして、その子の誕生前に名を決めているものだ。性別がどちらになるのかはっきりとは分からないので、男女両方の名を決めておき、占いやらなんやらで悪い運勢の名でないかどうかなどを慎重に吟味する。そこに両親である王や王妃の意志が介在することはあまりない。
けれど今回、身寄りも何もない、自分と出会う前の過去の記憶すら失っているルフレを、周囲に反対されながらも妻として迎え『家族』になって。そうして、彼女と自分の新しい家族として生まれる子どもには、きちんと自分で考えた名前を付けてやりたかったのだ。
ただ考えすぎたあまり結局この子が生まれるまでに決まらず、今も頭を悩ませているという訳である。
本来なら産後の寝室というのは、大勢の女官や侍女が詰めているのが通例だ。けれどルフレも疲れているようだったし、民への正式な発表の際、名がないままではまずい。その為早急に決めなくてはならないという事情もあったので、無理を言って家族三人だけにしてもらったのだった。勿論、別室で待機している者はいるので、何かあればすぐに飛んでくるのだろうけれど。
(目に聖痕が出ているというのは珍しいよな……ちゃんと見えているのか?)
我が子を抱く妻の顔はもう一夜にして母親のものになっていて、疲れた顔ながら腕の中の存在への愛おしさに溢れている。そんな彼女に慈しみをもって見つめられている赤ん坊は、クロムと同じ濃い青の髪と瞳を持っていた。しかも、クロムの腕にもある聖王家の印が左目にくっきり浮かび上がっている。
聖王家の人間には大抵身体のどこかしらに聖痕が表れるものだが(印のなかった妹のリズは、それで随分といわれのない中傷を受けた)、瞳に、というのは近年記録に残っている中では稀だ。
景色の中に聖痕まで映って見えたりはしていないのか、気になって、泣き止んで大人しくなった赤子の顔を覗き込む。
「クロムさんによく似ていますね」
「そうか? 目と髪の色はそうかもしれんが、こう、全体的な顔の造りはお前に似ているような気がするぞ」
「うーん、そうですかねえ。私は絶対クロムさん似だと思いますけど……ふふっ」
相変わらずほっそりとしたルフレの肩を抱きながら言葉を交わしていると、ふいに彼女が笑み崩れた。「どうした?」と耳元で囁くように問返せば、更にくすくすと笑い続ける。それがひどく幸福そうだったので、理由は分からないながらも幸せな気持ちが伝染して、じゃれつくような口付けを微笑みながら数度交わした。
ルフレもくすぐったそうにしながら、うっとり目を細めて受け入れてくれている。夜、閨の中で交わす濃密な口付けも堪らなく甘いが、こうして唇の表面が触れるか触れないかの軽い触れ合いも好きだ。そんなことを思いながら再度尋ねると、夫を見上げたルフレは少し恥ずかしそうに目を細めてこう返した。
「いいえ、クロムさんに似ている、というのは私の願望も入っているのかな、と思ったんです。だって、そうしたら、この子がいればクロムさんが忙しくて逢えなくても、一緒にいるような気持ちになるでしょう?」
「はは、それなら俺もそうなのかもな。お前に似た子の可愛い寝顔を見れば、疲れも吹き飛ぶだろうと思うし。自分より、好きな相手に似てくれていた方が、確かにいいかもしれん」
「ふふふ。ええ、そうですね。でもこの子は一人しかいませんから、やっぱりクロムさん似の方がいいです」
「いや、それなら両方に似れば解決じゃないのか? ん? ああ、そうか。もう一人いればいいのか」
色素の薄い彼女の髪と、赤ん坊の頭を交互に撫ぜてやって。時折ルフレの頬や目蓋、鼻先にも会話の合間に唇を落として。そうして我が子のことを話すのはとても幸せだった。この子が両親のどちらに似ているのか、彼女が一歩も引かないようなのでふと思いついたことを口にしてみる。
名案だと思ったのだが、たちまち腕の中の妻は熟れた林檎のように真っ赤になってしまった。先程までは出産の疲れの所為か白すぎる程だったのに。
「も、もう一人って……この子が産まれたばかりじゃありませんかっ」
「いや、きょうだいは多い方がいいだろう?」
「そそそ、それはそうですけど! も、もうっ。名前、早くこの子の名前決めてあげて下さい!」
追い出されてしまった。
もう少しルフレと一緒に可愛い我が子の顔を眺めていたかったのだが仕方がない。名前だ、名前。彼女に似た――クロムも、ここばかりは譲れない――愛らしい我が子に相応しい名を、早く考えてやらなくては。
そこでふとクロムは窓の外を見た。先刻も朝だということを窓から差し込む光で認識したのだけれど、よくよく外の景色まで確認したのはこの時が初めてだったのだ。そこには聖都の空に掛かる、鮮やかな虹があった。朝日に煌めく七色の光。
(そういえば、虹に纏わる古い話があったな……)
イーリスの古い神話には、誕生、あるいは光を司る神として伝えられているある女神がいる。彼女は人前に降臨する時、決まって美しい虹を伴っていたという。その女神の名は、確か……。
「なあ、ルフレ。決めたぞ。その子の名前は――――」
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