愛に堕ちた愚か者 - 2/2

 

 脱ぎ散らかしてしまっていた衣類を手早く身につけ、辺りに誰もいないことを確かめてから天幕を出る。未だ辺りは薄暗く、夜明け前といってよい時刻だが用心するに越したことはない。

 ルフレを手に入れた、とは言っても心まで完全に自分のものにした訳ではない。誰にも話せず、ひとり思い悩むしかなかったことで弱った心が縋る相手を求めただけだ。

 しかも、出逢った時からずっと想い続ける男、けれど今では他の女性を妻に迎え子まで儲け、無邪気に恋をすることは赦されない男と瓜二つの――否、時間軸が異なるだけで本来同一の存在が、その男と同じ声で同じ顔で抗いがたい誘惑を囁き込んだのだ、拒める筈がない。分かっていて、敢えてそうしたのだから度し難い。

 ただ、未来から来た<クロム>の存在は軍内でも限られた者にしか知らされていないけれど、軍師が男を天幕に連れ込んでいたとの噂が立っては、彼女の立場にも影響が出てくるだろう。

 ……本当は、ルフレの瞳が朝目覚めて一番に自分の姿を映すところを見たかったが。それはもう少し、彼女の中で<クロム>の存在が大きくなるまで待つことにする。

 戻らぬ『彼女』を両の手の指では足りぬほどの年月、待ち続けたのだ。あの時と比べれば目の前にルフレが確かに存在している今、待つと言ってもまったく辛くはない。

……ん?)

 周囲の気配を探りながら天幕から離れようと歩き出すと、見張りの兵以外ほとんど動く者がない暗い陣中に覚えのある気配がした。覚えがある、というよりは覚えがあり過ぎて間違いようのない気配、と言った方が正しいか。何しろ同じ存在なのだから。

 あちらでも気付いたようで、驚いたかと思えば、次の瞬間には笑えるほど動揺しているのがありありと伝わってきた。何しろ<クロム>が来た方角には、ルフレの天幕くらいしかない。この頃の自分は結婚していても相変わらず色恋沙汰の機微に疎く、妹のリズにも散々朴念仁とこき下ろされていた記憶があるが、さすがに明け方近く、男が女の寝所から出てくる意味を、分からぬほどでもなかったようだ。

 それにしても、何故ここにいるのか疑問なのはこちらも同じだった。早朝の剣の稽古を欠かさないと言っても、いつも起床はもう少し後だ。考えられるとすれば……己の半身が奪われる気配を、無意識に察知したか。

(だが……遅かったな)

 口元を吊り上げ<クロム>は嗤う。己が抱く感情の正体を見極められず選択を誤り、また半身がひた隠しにし続ける想いにも気付かない愚かな男。今更足掻いても既に遅きに失している。

 昨夜、彼女は自分の手を取った。この時代の『クロム』ではなく。たとえ心では未だに彼へ焦がれていたとしても、想いを告げられぬ男の代わりだとしても。彼女を抱いたのは……この自分だ。

「こんな時間に、ルフレに何か用なのか? だが今はよく眠っているから後にして欲しいんだが」

……っ」

 敢えて淡々と告げた言葉に、ルフレの天幕から程近い木立で立ち竦んでいた男が大きく目を見開いて息を呑む。彼が食い入るように見つめる視線の先を辿り、<クロム>はああ、と表情を緩めた。

 彼が凝視しているのは<クロム>の、はだけたままだった為に丸見えになっている鎖骨の辺りに付いた、朱い痕だった。初めて与えられる快感にルフレが翻弄され、意識も危なくなってきていたのをいいことにわざと痕が残るよう噛ませたのだ。

 最低限の身繕いしかしなかったのは、もしかしたらこのことを予見していたのかもしれない。彼に、見せつける為に。

 しかしルフレが自分にだけ与えてくれた印を、過去の己の視線にいつまでも晒しているのも不快で、さり気ない仕草で襟元から胸元にかけて整える。

「今まで、あいつのところにいたのか……?」

「そうだと言ったら?」

「何を……ルフレに何をした?!」

 この男の前では滅多に見せることのない笑みすら浮かべて答えれば、途端に彼は気色ばんだ。常より濃さを増した青い瞳に宿るのは間違いなく嫉妬だ。だが半身という都合の良い言葉で目を曇らせ、ルフレを縛り付ける男は自分がこれほどまでに苛立ち、焦燥に駆られる理由を少しも理解していないに違いない。

 かつての己のあまりの盲目さ、愚かしさにいっそ吐き気がする。だから<クロム>はますます笑みを深め、嘲るように言った。

「随分と過保護なことだな、聖王代理。お前は、彼女の男関係にまで口を挟むのか」

「なっ……。俺は、俺はただ……!」

 続く言葉を、男は紡げずにいる。半身という絆で分かち難く結ばれていると思い、故に自分から離れていくことはないと安心しきっていた無意識の、傲慢なまでの自信が揺らがされ、彼は今激しく動揺しているようだった。

 彼女も恋をし、愛しい男の温もりを求めずにはいられない女であるということを、すっかり失念しているらしい。一度ルフレを選ばなかったというのに、彼女には選ばれ続けたままでいると思える方がどうかしている。

(もう、お前に返してやるつもりは毛頭ないぞ……『クロム』)

 彼女が傷付き、苦しんでいることに気付けない、そしてこれからも一度として気付かないままむざむざ半身を喪って。そこまでいかなければ己の恋情を自覚できない男になど、これ以上ルフレを任せておけない。

「ルフレは確かにお前の軍師だが……恋人でも、夫でもないだろう。いいか、彼女に干渉するな。彼女のことは俺が守る。お前ではもう無理だ」

「おい、待て!!」

 鋭く斬り付けるようにそれだけ口にすると、背後で呼び止める声が発せられるのも無視して再び歩き始める。腰に佩いたファルシオンが彼の感情の昂ぶりに呼応して、かかたかたと細かく鍔鳴りの音を鳴らしていた。

 ……情けない。どうしようもなく苛立っていたのはこちらも同じだった。どれほど愚かであろうとも、彼女の想いに気付かぬまま半身として側に居続けるよう要求する残酷な男であろうとも。今、ルフレの心を占めているのはやはりあの男なのだ。

 そのことに胸の奥、長年聖王としての位に在ったことで擬態がうまくなり、押さえ付けられていた獣じみた欲が唸りを上げる。身体だけでは足りないと、彼女の身も心もすべて自分のものにしたいと暴れ回ろうとする。

 どうにかそれを宥めすかし、<クロム>は頭の中で再度策を巡らせ始めた。ひとまずは上手くいった。最初はこの時代のクロムの代わりとしてでもいい。とりあえず、今は。

 優しくする。ただひたすらに優しくして、自分には縋っていいのだと、何も隠さなくていいのだと甘やかす。そうして他の誰にも打ち明けることのできない想いを、悪夢の記憶を唯一さらけ出せる存在として、少しずつ少しずつ、ルフレの心を絡め取っていき。やがて――――

 いつの間にか水辺に辿り着いていた。そろそろ空も白み始めている。早い者はもう起きだす頃だろう。ふと視線を彷徨わせて気付いたが、水面に映った表情はひどく歪んでいる。彼女の前では絶対に見せないが、これもまた<クロム>の本性だった。

 戻らぬ半身を待ち続けて、ひとつ、またひとつとすり減っていった心。未来の世界で偉大な聖王と讃えられた男は、今やある意味純粋に狂っていた。

「今度こそ――お前を喪わない。俺のルフレ……

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!