「あ、おかあさん!」
先刻までわんわんと辺りを憚らず大声で泣いていた少女は、人混みの中で必死の形相で何かを探している様子の亜麻色の髪の女性を見つけると、途端にぴたりと泣き止んでこちらの手を離し駆け寄って行く。
行商部隊が複数駐留している為、通りは凄まじい人出だ。売り子の声や白熱する値切り交渉などでざわついていることもあって、細く高い幼い子供の声は紛れてしまいそうだけれど、お母さん、と少女に呼びかけられたその女性は我が子の呼び声をきちんと聞き分けたようだった。
やはり母親だから、なのだろうか。記憶がなく母という存在との時間をルフレは覚えていないし、当然ながらまだ子を持ったこともないのでよく分からない。
泣きじゃくる少女の小さな手を引いてやっていた左手を無意識の内に握り締める。そうしている間にも、雑踏をかき分けて少女の元へ辿り着いた女性は感極まったように膝を落として、ひしと幼い身体を抱き締めた。
「良かったな、母親に会えて」
「……え、ええ。そうですね」
ルフレと共に迷子になった少女の母親探しをしていたクロムが、何とも言えない優しい顔で再会できた親子の姿を見つめている。離れていたのはおそらく一刻ばかりだと思うが、母親としては気が気でなかっただろうからルフレもよかった、と素直に頷けばいいのに、少し間が空いてしまった。
そんな彼女の反応にクロムがやや以外な顔をする。けれど何か言いかける前に、少女が「おねえちゃん! おにいちゃん!」と自分たちを今度は明るい響きで呼び、大きく手招きをした。
「このおねえちゃんとおにいちゃんがね、おかあさんをさがすのをてつだってくれたの」
「本当に……ありがとうございます。何とお礼を言ったらいいか」
しきりと恐縮する女性に、気にすることはないと気さくに応じ、少女の頭を撫でてやっているクロムの後ろで、ルフレはずっとある一点を見つめ続けていた。
もう二度と離すまいというかのように、しっかりと繋がれた女性と少女の手。未だ戻らず閉ざされたままの記憶の奥底には、同じ光景があるのだろうか。ルフレも、差し出せば必ず握り返してくれると疑いもなく信じていた、いついかなる時でも望めば与えられた母の手に、守られていたのだろうか――――。
***
夜、昼間の出来事がなんとはなしに気になっていたクロムが陣から少し離れた小川の近くまで歩いて行くと、そこには既にルフレがいて、河原にある岩の上に直接腰を下ろし星空を見上げていた。
その横顔は錯覚かもしれないが、凛としていて、戦場では一歩も引かない彼女の普段の姿とはどこか違っている。何かを思い悩んでいるような、気掛かりがあるような、そんな憂いのある表情だ。
心当たりがないわけではないので、ゆっくり近付いて声を掛ければルフレは振り返ってさみしげに微笑い「クロムさん」と彼の名を呼んだ。座るぞ、と断ってからその脇に腰掛け横並びになる。
「……星を見ていたのか?」
「いいえ、……」
否定はしたものの後に続く言葉はない。ルフレが会話の途中で俯きがちになるというのは珍しいことで、やはり何かがあるのだろう。ガイア辺りなら遠回しにうまく聞き出すのかもしれないが、言葉を飾らない、悪く言えば直接的な物言いばかりしてしまうクロムには難しい。
しばらくルフレの横顔を見つめていたが、妙案が思い浮かばなかったので「何か悩みがあれば聞くぞ、相棒」と頭をぽんぽんと叩いてみる。ルフレは「もう、子供扱いしないで下さい」と膨れてみせてはいるけれども、いつもの元気がない。それでも乗せた手で頭を撫ぜるようにしてやれば、しばらくしておずおずと口を開いてくれた。
「昼間……迷子になった女の子のお母さんを、探してあげましたよね」
「そうだったな」
「……それで、その……私の家族は、どんな人達だったのかと……少し、考えてしまって」
「そうか」
頷いて、ああ、やはりそうだったのかと思う。今日の昼間、母親に手を握られて、笑顔で礼を言いながら去って行った少女を見つめる彼女はどこか様子がおかしかったのだ。その時はぴんと来なかったが、腹ごなしにと剣の素振りをしていて原因と思われることに思い至った。
ルフレには、クロムたちと出会う以前の記憶がない。何故か彼女自身と、クロムの名前だけは覚えていたものの、他のことは何ひとつ。近隣で聞き回っても、行方不明になっているような女性で、ルフレと特徴が一致する人物というのはなく、出会って随分経ったが彼女を探しているという噂も入ってきたことがない。家族がいれば、年頃の娘がいなくなったとしたらきっと探すだろうに。
普段はあまり記憶をなくしているという風には感じさせないが、彼女が言うように物資の補充の為に立ち寄った街で迷子になっていた子供の母親探しを手伝ったので、それで自分の家族について――特に、自分の両親について考え込んでしまったに違いない。
クロムには薄ぼんやりとだが両親の記憶はあるし、いつも見守ってくれた心優しい姉のエメリナも、お転婆で騒がしいがやはり可愛い妹のリズがいた。『家族』はクロムにとって欠くことのできない大切なものだ。なのに、それがなかったとしたらどんな気持ちになるだろう。けれど……。
「そうか、って何だかクロムさん、言い方が軽いです。私これでも真剣に悩んでいるんですよ?」
「ああ、すまん。だがそうだな……もし見つからなければ、俺と家族になればいい」
「へ?」
言われた言葉の意味が、分からないという顔だ。しかしクロムは真剣だった。ルフレとは、会って十数年来の親友といった方がぴったりなくらい、気が合うし、一緒にいて居心地がいい。気張らずありのままの自分でいてもいいと思える。これはもう、ほとんど家族同然と言っていいくらいで、それなら実際にそうなっても、あまり今と変わりない筈だ。
「俺と家族になれば、リズは色々とやかましいが毎日退屈しないだろうし、姉さんは貴婦人の手本のようなひとだからな、お前もいい勉強になるだろう。王城に住めば城の図書室に好きなだけ通えるし、料理も美味い。ほら、いいことずくめじゃないか」
「な、何だか色々と突っ込みたいところはありますが……ふふっ」
そこでルフレがおかしそうに笑みをもらした。止めようとして口元を覆うが収まらずにくすくすと笑い続ける。その表情や声から憂いの蔭が消えたことに安堵するのと同時に、月の光に照らされて、先程までは儚げに見えた彼女の表情が今ではとても綺麗だと、そう思ってしまって。そしてそんな風に思った自分に大いに戸惑う。
出会って一年も経っていないとは思えないほど気安く接することができるので、香水の匂いを振りまき、着飾って華やかな笑顔を向けてくる、社交界で出会う令嬢たちと同じ女性だとは思えず、女に見えない、とうっかり口を滑らせて、石を投げつけられそうになったのはつい先日の話だ。それなのに、今夜は何故そう感じるのか不思議でならなかった。
「なら、私がクロムさんのお姉さんですか?」
「お、おい、どうしてそうなる。普通はお前が『妹』だろう」
「あら。でも私、自分の年齢も覚えていないんですよ。もしかしたら、見た目よりずっと上という可能性もありますよね」
悪戯っぽい笑みで「ほらほらお姉さんですよ、もっと敬ってください」と茶化すルフレはやはり綺麗、だった。月の光の所為なのだろうか? 急に指先と手のひらが感じる柔らかな髪の感触や、睫毛の長さ、ふっくらとした唇の輪郭まで詳細に分かってしまう距離に座っていることに居心地の悪さを感じ、さり気なくさり気なく手を引き抜いて距離を取る。
鼓動がいつもよりほんの少し、早い気がした。それでもルフレがいつもの笑顔になってくれたことが嬉しくて、クロムもつられて笑っていた。
それはまだ、とうの昔に芽生え、今やすっかり心の奥深く根付いてしまった想いを彼が自覚する、その前の話。
ペレジアと緊張状態にあるとはいえ、まだ彼の姉、聖王エメリナも存命で比較的穏やかな時間が流れていた、ある月夜の晩のことである。
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