雲ひとつない快晴、ぽかぽかと暖かな何とも過ごしやすい陽気。吹く風は穏やかで、咲き誇る春の花々の甘い香りを連れてくる。
これに加えて急ぎの仕事もさほど溜まっていない、となれば自他共に認める愛妻家である聖王代理が、政務の合間に身重の妻を訪うと決めたのも当然の流れといえるだろう。
いったんそう決めるや、クロムは風で決裁途中の書類が飛ばぬよう重しを乗せておき、椅子から立ち上がって執務机の前で大きく伸びをする。
書類仕事が苦手な彼としては、それから解放されるだけでも嬉しいのだが、妻のルフレに会えるとなるとさらに嬉しくて堪らない。頬がだらしなく緩むのを抑えきれず、ぶんぶんと頭を振ってイーリス聖王国の国主たる威厳のある面持ちを維持しようと努める。
「しばらく、ルフレのところへ行って来る。フレデリクが探しに来たら、俺は奥向きにいると伝えてくれ」
「かしこまりました。どうぞ、ごゆっくり」
しかし聖王代理の執務室周辺の警護に当たる衛兵たちは、クロムが少しの間、奥向きの妃のところへ行ってくると告げただけで、すべて言わずとも分かっている、と言いたげな何とも生温い視線を向けてきた。
彼が記憶喪失の行き倒れとして拾ったルフレを、頭の固い貴族たちの反対をねじ伏せて自分の妻として迎えるまでの紆余曲折、そして婚儀の後の仲睦まじさ――時に仲睦まじすぎるほど溺愛している――は、王城内で知らぬものはいない。
いくら聖王代理としての威厳を保とうと努力しても、クロムの心が既に最愛の妻のところへ飛んで行ってしまっていることは、周囲の人間にはお見通しであった。いささか気恥ずかしさを覚えつつ、奥向きへと歩みを進める。
ふわり、とまた風に乗って甘く芳しい花の香りが漂ってきた。なんとはなしにそちらへと目をやれば、冬から春へ移り変わる時節に咲く小さな花。
花壇や庭園の中で大仰に育てられ、愛でられるものではない。王城内でなくとも、城下でも、辺境の村々でも見ることができるありふれた花だ。
けれど中庭の隅に咲く可憐な薄黄色のそれから目が離せず、屈み込んで一輪手折る。これを、癖があって櫛通りのよくない自分のものとは異なり、さらさらとして艶やかなルフレの髪に挿してやったら似合うだろうと思ったのだ。
侍医の見立てによると、そろそろ産み月だというルフレは何かあったら大変だと、過剰なまでに絶対安静を命じられている……と他人ごとのように言ってしまうが、命じたのはほかならぬクロム自身だ。
何しろ初めての出産で、しかも懐妊が分かった当初は悪阻がひどく、見ているクロムまで辛くなってくるほどだった。だから過保護なくらいに接してしまうのも許して欲しいと思う。
しかし『書類仕事くらいなら出来ますし、お部屋から出られないなんて身体が鈍っちゃいます』とむくれるルフレは愛らしいやら抱き締めてそのまま離したくないやらで、妹のリズやフレデリク辺りにはいっそ夫婦の部屋を執務室にしてしまえばよいのではないか、と言われる始末。勿論ルフレには大反対されたが。
愛しの妻の側から離れたくないと駄々をこねる彼を、透き通るような白い頬を赤く染めながら窘め、説き伏せたルフレとの約束によってどうにかこうにか日々の政務をこなすクロムだったけれども、やはり彼女の様子が気になって仕方がない。
今日はこの花を届けることを口実に、様子を見に行くつもりだった。喜んでくれるといいが。
手折った花を握りつぶさないようにしながら、クロムは足取り軽く、代々の聖王夫妻の為の寝室、自分たち夫婦の部屋へと急ぐのだった。
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