春の幸福 - 2/2

 開け放った窓からそよそよと吹き込むやわらかな風のにおいは、確実に冷たい冬から花々や緑が芽吹く春のものへと変わっていた。

 不器用ながらも辛うじて見られる形になってきた毛糸の靴下を熱心に編んでいたルフレは、口元を緩めて編み棒を操っていた手を止める。

「ふふ、いい季節になってきましたね」

 これからが、一年の間で最もイーリスが美しい時期だ。年間を通じて比較的過ごしやすい聖王国ではあるが、大地を埋め尽くす緑の眩さ、生命の尊さを寿ぐように次々と咲き始める花の華麗な姿は格別だった。

 世界のすべてが優しいものでできているような、希望で満ち溢れているような、そんな気持ちにさせられる。

 もう前屈みになるのが苦しいくらいせり出た腹部を愛おしげに撫ぜ、甘いにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。

 お腹の子は今月中にも生まれるだろうとのことだったから、祖国の一番美しい姿をまず真っ先に見せてやれるのが嬉しい。そして何より、クロムと出会った季節に、彼との子が生まれてくるというのは、とても幸福なことのようにルフレには思えた。

(自分が誰かすらも分からなかった私が、クロムさんたちと出会って、軍師として自警団に置いて頂けることになって……あれから本当に、色々ありましたね)

 しかも、今では聖王代理となったクロムの妃だ。素性の知れない彼女を聖王家の一員として迎え入れることに関しては随分と反発があったが、クロムはそんな声をものともせず『自分の好きな女を妻にして何が悪い!』と渋る貴族たち相手に啖呵まで切ってくれたのだ。

 そして、右手の禍々しくも思える痣と、悪夢の記憶に密かに怯えるルフレには『何があってもお前を遺して死んだりはしない』と力強い誓いの言葉を。

 正直、今でも彼の側にいていいのか不安になることはある。それでも自分を信じ、真摯に想ってくれているクロムに相応しい人間になりたいと思うし、この子がやがて受け継ぐことになるイーリスをよりよい国にしていきたいとの思いは強くなるばかりだ。

 だから元気に生まれてきてくださいね、とお腹の中の子に語りかけていると、とさりと何かが着地したような音が開いたままの窓の向こう、露台側から聞こえてきた。嫌な予感を覚えて、編み棒と編みかけの靴下を置き、恐る恐る窓際へと近付いて行く。

 先程まで午後の日差しがやや眩しく感じられていたので、カーテンを閉めていたから音の発生源が何なのか開けてみなくては分からない。でも、感じられる気配がとても慣れ親しんだものに感じられたのだ。

「ど、どなたかいらっしゃるのですか……?」

 半ば答えは予測していたものの、一応窓の外へと呼び掛ける。すると風が一瞬強く吹いてカーテンを大きく波立たせ――思わずぎゅっと目を瞑ったルフレが風が収まるのを待っている間に、力強い腕が彼女を捕らえていた。

 同時に、甘やかな香りが鼻孔を擽る。ふうわり腕の間に落とされたそれは、色とりどりの花だった。白昼堂々、聖王代理夫妻の部屋に忍び込んで、こんな子供の悪戯のようなことをする人は、ルフレの知る限りひとりしかいない。

 抱き潰さないようにとの配慮か、身籠る前より優しく回された腕に甘えるように頬をすり寄せ、ルフレはその人の名を呼んだ。

「もう……クロムさん。入るならきちんと入り口から来てくださいな」

「ん? ああ、すまん。ここに来るまでの間に随分服を汚してしまってな。正面から行くと小言を食らいそうだったんだ。窓からなら誰にも見咎められないだろう?」

 そもそも窓から部屋に入り込もうとする方が問題だ。そうは思ったものの、彼女がそれを口にして抗議する前に、挨拶代わりにちゅ、と音を立てて口付けが落とされ続く言葉は喉の奥に封じ込められてしまった。

 頬に熱が集まるのを抑えきれず、俯いた視線に映るのは摘まれた花たち。昨日も白い小さな花で指輪を作って持ってきてくれたし、その前も上手く細工をすると綺麗な音が出る葉を差し出してくれた。

 近頃のクロムは、こうしたささやかなものを渡すことを口実に、日中でもルフレによく会いに来る。しょっちゅう執務室を空けてしまう主君に皆呆れ半分、微笑ましさ半分、といったところだろうか。しかし服を汚すくらい、花摘みに熱中してしまうのは……

「おさぼりの聖王様、今日のお仕事はもう終わったんですか?」

「休憩を挟んだ方が仕事の効率がいいんだ。前はお前も口すっぱく小休止を入れろと言ってたじゃないか」

「もう……。でも、服を汚すのはよくないですよ?」

「仕方ないだろう。花を見かける度、お前に似合いそうだと思って摘んでいたら、庭の奥まで入り込んでしまったんだから」

 言葉を交わす合間にも、口付けの雨は止まない。髪に、額に、頬に、鼻先に。次々唇が触れていってくすぐったい。本当に困った旦那様だと思う。

 前からルフレには甘いクロムだったが、こと身籠ったことが分かって身体を重ねられなくなってからは、彼の方がまるで子供のようにべったり甘えてくる。

 くすぐったいですよ、と訴えてもクロムはまるで頓着せず、くるりと腕の中のルフレを回転させて正面を向かせると、ぱらぱらと落ちていく花の山から一輪、薄い黄色のものを摘むと、その時ばかりは真剣な顔になってすっと彼女の髪に挿した。

 再び近づいた距離に目を閉じると、「思った通り……よく似合う」と囁くように告げて唇が重なり、感じる愛しい人の温もりに胸の奥が切なく疼いた。

 大きな手がもうすぐ生まれてくる我が子が微睡む腹部を優しく撫ぜる。その、いつでもルフレを守ってくれた手を自分のもので包み込み、今度は二人でこの子を守っていこうと誓いを新たにしたのだった。

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