聖王陛下の特効薬 - 1/3

 細く開けた窓から吹き込む風が、そっと室内に初夏の空気を溶かし込む。若葉、あるいは城内のどこかで咲いた花々、大勢の賓客を迎えるためにせっせと洗われる洗濯物の香り。そういったものが冬の名残がすっかり消え失せた日差しに暖められ、人々を開放的な気分にさせる。

 イーリスで最も美しい季節は春だが、それを過ぎても美しさに翳りが出るわけではない。また別の魅力が新たな輝きを放つのである。

 とはいえ、自国の季節の移り変わりを堪能する余裕は残念ながら今のクロムにはなかった。ここしばらく、執務室の重厚な机の前に鎮座する椅子とほぼ一体化しているのだ。

「陛下、こちらの書類に裁可をーーーー」

「式典と夜会の警備体制です。フレデリク卿が万事整えておいでですが、陛下にもご確認いただくようにと」

「リヴァンブルとトゥルネリス、両領主からの陳情の件ですがーーーー」

 聖王として必要な務めだとは理解していても、元来書類仕事より、体を動かしている方が性分に合うクロムにとってなかなかの苦行である。

 自身の誕生日も近付いているが、聖王の生誕祭は国内外の有力者との外交の場、あるいは民のための祭りという側面が強く、誕生日を祝われるというより公務の一貫という認識だ。

 しかも、最愛の半身にして妻であるルフレとはお互いの忙しさからすれ違いの日々が続いていた。可愛い子供たちの顔もロクに見られていない。多分、眉間の皺の深さは最深記録を更新しているだろう。心が荒みそうだった。

「おとうさま、おいそがしいところすみません」

<ルキナ>! どうした、今は休憩時間のはずだろう?」

 少し入り口の方がざわついたと思ったら、クロム譲りの濃い青髪を揺らし、娘の<ルキナ>が室内に詰めている文官に案内されて執務室の中へ現れた。

 先日八歳の誕生日を迎えた<ルキナ>は、袖口と襟に繊細なレースがあしらわれた爽やかな水色のワンピース姿で、胸元の幅広のリボンの結び目は聖王家の紋章を象ったブローチで留められていた。

 確か今は、家庭教師の歴史の授業が終わった頃合いだ。だからだろうか、かっちりした格好は小さな淑女という趣で、ルフレ譲りの利発さが強調されているように思われた。

「おとうさまにお会いしたくて……

 愛娘からそんな風に告げられて嬉しく思わない父親がいるだろうか。いや、いるはずがない。

 零れ落ちそうに大きな瞳で父親を見上げてくる<ルキナ>に、クロムの眉間の皺はたちまち消え去った。眦を緩め、優しく微笑みかける。

「俺も<ルキナ>の顔が見たかったから、来てくれて嬉しい。ありがとう。お前は理解が早くてとても優秀な生徒だと家庭教師たちが口を揃えて誉めていたが、無理はしていないか?」

「はい。<マーク>ともたくさんあそびたいので、ちゃんと計画的におべんきょうしています。……あの、おとうさま。おねがいがあるんです」

 胸の前で小さな手を組み合わせ、娘は一歩クロムの執務机へ近付いた。「お願い?」とこれまた優しく問い返しながら、クロムは少し居住まいを正す。

 生真面目な<ルキナ>のことだ、執務中、それも年に一度の生誕祭の準備が重なっててんてこ舞いな父親をわざわざ訪ねての『お願い』とあれば、身を入れて聞く必要があると判断した。

「何か困りごとか? 必要があるなら皆には少し席を外してもらうが」 

「いいえ、すぐ済むのでだいじょうぶです」 

 ごく個人的な悩みや心配事に関わる願いなら、周囲に聞かれたくないかもしれない。そう思って配慮を示したが、ふるふると首を振る。

 最近背丈が伸びてきたものの、まだまだ椅子に座ったクロムの方が目線が高い。可愛らしく小首を傾げた愛娘は、じっと上目遣いで父親を見ると、「わたしとお茶をしてほしいんです」と言った。

「お茶……? それは今から、ということか?」

「はい! ハンナにお願いして、だんわしつにお茶をよういしてもらったんです。わたしときゅうけいしましょう、おとうさま?」

 にっこり笑う<ルキナ>は愛らしいことこの上なく、ここしばらくの忙しさによる疲労が随分癒される心地がした。

 父親としては、可愛い娘のおねだりとあれば一も二もなく頷きたいところだが……

<ルキナ>、せっかくの誘いなんだが、今でないとダメか? しばらく生誕祭の準備で立て込んでいてな、それが終われば少し時間が取れるから……

…………だめ、ですか?」

 上目遣いのままうるっと瞳を潤ませる娘に罪悪感を刺激されつつ、内心どうも違和感があった。繰り返しになるが<ルキナ>は非常に生真面目だ。

 相手のことを常に考え細やかに気を遣う、母親のルフレ譲りの気質を持つ彼女なら、多忙なことが分かっている仕事中の父親を、よほどの事情がない限り訪ねない。

 まして、父親の返事を聞く前に茶の用意を自分の侍女に頼んでしまっているのも、普段ならあり得ないことだ。

 もしや茶をしようという誘いかけは周囲に対する建前で、本当はクロムに相談したいことがあるのだろうか。

 執務が山積みなのは本当で、ただ娘が遠回しに助けを求めているなら一刻も早く応じてやりたい。どうしたものか。

 クロムの葛藤は、しかし長続きしなかった。側に控えていた、<ルキナ>を案内してきた文官が「それはいいですね」とあっさり頷いたからだ。

「は?」

「ほんとうですか?! お茶をいっぱい、だけじゃなくて少しおしゃべりもしたいんです」

「ええ、<ルキナ>様。さすがに夕刻までとなると厳しいですが、鐘ひとつ分であればなんとか」

「じゅうぶんです。ありがとう!」

 呆気に取られる主君の代わりにさっさと話を進めていく、優男風でなよっとした外見の文官は、日々愛らしく成長している小さな王女の笑顔にでれでれと相好を崩している。

 その袖を掴み、ぐいぐいと部屋の隅へ引っ張っていって小声で抗議した。

「おい、勝手に話を進めるな! 片付けないといけない案件が山積みで、本当に時間に余裕は……!」

「問題ありません、陛下。元々フレデリク卿から言われていましたので、そろそろ休憩をお勧めするつもりでした」

 キリッとした顔で返す文官。今適当に考えたんじゃないかと問い詰める前に、理路整然と休憩の必要性や作業効率の改善効果を説かれたのに屈したわけではない。

 こそこそしている父親を娘が不思議そうに見ているので、長引かせるわけにはいかなかったのと、今更駄目だと言えばがっかりするだろうと懸念したからだ。何か相談したい悩みがあるのでは、という心配があった所為でもある。

 手早く作業中だった書類を整理し、不在の間のことを託すと、娘の頭をぽん、と撫でた。

……それじゃあ<ルキナ>、談話室に行くか」

「はい!」

 満面の笑みを浮かべた<ルキナ>は、「おじゃましました!」と執務室に詰める文官たちにぴょこんと頭を下げてクロムが差し出した手を握る。

 最後に執務室から出る時、件の文官に小さく手を降っていて、それを見た文官がまたでれでれとしていたので、素早く頭の中で計算をする。

 <ルキナ>は今八歳。あの文官は確か、伯爵家の三男坊で二十歳そこそこだったはずだ。……まあ、あり得ない年齢差ではない。

(早めにあいつに縁談を世話してやるよう、フレデリクに頼まないとな)

 ご機嫌な様子の愛娘の手を引いてやりながら、至って大真面目にそんなことを考えている聖王クロム。

 多くの臣下の結婚を纏めてやったことが、『人』を大事にする彼の仁君ぶりを語る挿話のひとつとして後々語り継がれていくことになるのだが。

 その理由が、愛娘たちの周囲にいる悪い虫予備軍を片付けるためという、親馬鹿極まりない残念なものであったことは、幸いにして後世に伝わっていない。

 

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