王子と軍師のとある一日 - 1/2

 雨季の貴重な中休みとなったその日、聖都上空に広がった青空は、清らかな湖水のように澄んで爽やかだった。
 ルフレは目覚めてすぐ、自室として使っている自警団詰所の一室の窓を開け放ち、朝一番の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。
 三日ぶりの明るい日差しが、窓の外にある植え込みの葉に溜まった雫を照らしてきらきらと光っていた。
 大きく伸びをした後、口元に手を当てて欠伸をひとつ。それから、顔を洗いに行く前にと、昨夜睡魔に勝てず、机の上に放り出したままだった書き付けを手に取った。
 近日中に団員を二手に分け、演習形式で自警団の訓練を行う予定なのだ。書き付けはその際の編成と、聖都から少し離れた場所にある、実施予定地の地図を簡略化した上に書き加えた、配置図の素案である。

(ある程度まとまったら、クロムさんやフレデリクさんに見ていただかないといけませんね)

 設立してから数年しか経っていないというイーリス自警団の団員は、大半が腕っ節に自信があって志願はしてきたものの、村で鍬を持って田畑を耕していた農民や、町の住人だ。
 実践経験に乏しい彼らにはできる限り訓練に参加して欲しい。ただ、通常の見回り等の仕事もあるし、団員によって得意とする武器も、練度も異なる。
 誰を訓練に参加させて、誰を都に残すのか、どういった編成にすればより効率的な経験が積めるのか、細々と考えなくてはならないことがあった。
 それに、消耗した武器や薬草類の補充もしなくてはならないし、今日一日この晴天が続くなら手が空いている者に、先日壊れた、というか壊された詰所の壁を修理してもらわないと、危なくて仕方がない……
 そこでルフレはぴたりと動きと思考を止めた。近頃、自分は自警団のことばかり考えている。ずっと前からここの一員だったみたいに。

(違います。私はただ、自警団の戦力がある程度上がるまでのお手伝いのつもりで、ここに来て……。だから、短い間しかいないなら、その間にできる限りのことをしたいと思ってるだけです。……いつかは、離れるんですから)

 その『いつか』が、正確にどれくらいの期間なのか、はっきりさせたくないことに戸惑う。
 寝起きのため、素肌を陽光に晒している右手の甲にある、自然にできた痣にしてはあまりに精緻な印を見つめた。
 対照的に配置された印は、決して誰にも見られてはいけないと、繰り返し繰り返し母が戒めていたものだ。
 この印ゆえに――母は何も言わなかったけれど、物心がつく頃には既にルフレはそれと察していた――、自分たち親子は誰とも深く関わらず、ひとつの場所に決して長く留まることをしなかった。
 だから自分も、幼いルフレを連れ、何かから逃げるように各地を転々としていた母と同じように、ひとりで生きていく筈だったのに。
 それもこれもみんなクロムさんの所為です、とルフレは自分が他者と関わりあって過ごす日々に馴染みつつあることへの困惑を、無理矢理とある青年への苛立ちに変換させて、起きたばかりの寝台へぼすっと身を投げ出した。
 ちゃんとした寝台で眠れるというのは、以前のルフレにとってとても贅沢なことだったが、すっかり順応してしまった。そのことにも、何とも言えない気分に襲われる。
 まだ梳かしてもいない髪が顔にかかって視界を塞いでいるものの、ルフレはそのまま目を閉じた。
 瞼の裏にに浮かぶのは、母との死別以後、久しく口にされることがなかったルフレの名を呼び、一緒に来てくれと言った青年の真っ直ぐな瞳。
 打算も計略も何もない、穏やかで優しい月がある日の夜空のような双眸は、吸い込まれそうな深い深い藍色をしていた。
 ごろん、と枕を抱えて寝返りを打つ。

 クロムは不思議な人だ。育ちの良さは伺えるが、かと言ってあまり王族には見えない。それに、底抜けに寛容というか、人を信じ過ぎるきらいがあるのもどうかと思う。
 詳しい素性も尋ねず、ルフレを自警団に誘った彼が王子だと後から知って、冗談でなく目眩がした。
 器が大きいと言えば聞こえはいいが、自警団に加わってからこちら、クロムから向けられるいっそ無防備にも思える信頼に、彼の辞書に警戒心という単語がきちんと収録されているのか不安になる。
 ただ、何か人を惹き付けるものを持っているのも確かで、団員は皆多かれ少なかれ団長を慕っていたし、城下の民の間でも、姉女王を支える正義感に溢れた王子は評判が高い。
 ルフレは……ルフレも、時に無遠慮なクロムの言動――自分が必死になって守ってきた境界線を、頓着せずひょいと超えてしまわれたような――に、心が波立つことがあっても、嫌いにはなれなかった。
 そう、嫌いではない。彼と接していると調子が狂わされることばかりだけれど、どこか危なっかしくて目が離せないのだ。
 
(訓練で物を壊してばかりいますし、おせっかいで人のことを放っておいてくれないですし、たまにデリカシーに欠けていますし。……でも、時々すごく頼もしく見えることがあるんですよね……。うーん、やっぱりクロムさんって、ちょっと王族にしては変わってます)
 
 少なくとも、ルフレが『王族』という人種について、書物や人の噂話から得ていた知識とは大分異なる。
 そんなことを寝台の上でごろごろ転がりながら考えていた所為だろうか、普段は気配に敏感なルフレは、部屋の扉が忙しなく叩かれて初めて来訪者に気付いた。
「ルフレさーん、起きてるー?」
「リズさん?! ちょちょっと待ってください!」
 がばりと寝台から跳ね起きて、慌てて枕元に投げ出していた手袋を嵌める。その下には洗濯しておいた着替えもあるが、時間がないので寝巻き代わりの服の上に、椅子に引っかかったローブをとりあえず羽織った。
 それにしても随分早い。まだ早朝の礼拝や、朝市開始を告げる鐘が鳴ってさほど経っていない時間に、よく王女であるリズが城外に出られたものだ。
 もしかしたら、何か緊急の用件があったのかもしれない。人を出迎えるのにあまり適した格好ではないが、そこは勘弁してもらおう。
「すみません、お待たせしました……あら? 今日はマリアベルさんも一緒なんですね、おはようございます」
 訪いを告げた声は、兄と同じく王族らしからぬ気さくな少女リズのものだったが、扉を開けてみれば思わぬ人物がもうひとりいた。
 リズと親しくしているテミス伯爵令嬢マリアベルだ。毎回感心してしまうのだが、よく手入れされた眩いブロンドをきっちり丁寧に巻いて整えられた髪型といい、動きやすさを重視しながらも、貴族の令嬢らしい上品さを失っていない着こなしといい、完璧である。
 しかし、挨拶をしながら思わず見惚れるルフレとは対照的に、マリアベルはこちらから声をかけるや、形の良い眉をキッと吊り上げた。
「何なんですのルフレさんっ、そのフレデリクさんの特別訓練で一昼夜駈けずり回された後のような、だらしのない格好は!!!」
「す、すみません、先ほど起きたばかりで……。でも、そんなに酷いですか?」
「酷いなんてもんじゃありませんわ、髪はぼさぼさですし、敷布の痕が顔についていましてよっ。鏡くらい見たらどうなんですの?!」
「え? えーっと、鏡でしたら多分、あの本を重ねてあるところの後ろに……
「まあ! それでは、鏡の意味がないじゃありませんの! いいですことルフレさん、あなたには前々から言うおうと思っていたのですけれど――――
 なまじ手をかけた美しい容姿をしているマリアベルにこうしてぽんぽん畳み掛けられると、妙な迫力があってルフレはたじたじになった。
 清潔は心がけていても、華やかさとは無縁の日々を送っていたので、彼女のような人には内心引け目を感じてしまう。
 せき止めておいた水流が解放されたようにマリアベルが言葉を放つのを、始めは呆気にとられて見ていたリズが、そこではっとしたように親友とルフレとの間に割って入った。
「待って待って、マリアベル! 目的を忘れちゃダメだよ。今日はルフレさんにおめかししてもらって、お兄ちゃんをギャフンと言わせようって計画してたじゃない」
「あら……そうでしたわね、私としたことが。確かに、身なりに構わなさ過ぎるルフレさんへのお説教は、その間にもできますもの」
「ええっ?!」
 今、何やら聞き捨てならない言葉が聞こえてきた気がする。
 嫌な予感を覚え、そうっと後ずさろうとしたルフレは、息のあった少女二人組により、思わぬ力で腕を握りしめられていた。
 ……正直、目が据わっていて怖い。年頃の娘らしく可憐な双眸に似つかわしくない、奇妙な闘志がみなぎっているのだ。何故かクロムの名が出てきたが、関係があるのだろうか。
「ル・フ・レ・さ・んっ!」
「はいっ?!」
「おめかし、してみたくない? してみたいよね? ね?」
「い、いえ、私は別に……普段通りの格好でまったく構いませんよ。ええ、まったく」
 口元を引きつらせながらも、どうにか笑顔を保つ。
 フリルや刺繍たっぷりのスカート、髪を飾るひらひらした淡い色のリボン、繊細なレースがあしらわれたドレス。
 そんな華やかな装いに憧れないわけではないけれど、動きやすく、汚れたらがしがし洗濯できて、頑丈な衣服が一番扱いやすいし、何より慣れている。
 元々放浪を続ける生活だったから、身の回りのものを最低限しか持たなかったルフレが『おめかし』だなんて、違和感がありすぎて笑ってしまう。
 第一、王女として生まれた時から最高級の品々に囲まれて育ったのであろうリズや、いかにも淑女然としたマリアベルのような少女だから着飾っても似合うのだ。ルフレでは衣装と釣り合わない。
 だが二人は違う見解のようだった。
「少しは構ってくださいまし! ですからクロムさんにあんなことを言われてしまうんですわ、ルフレさんの女性としての名誉にも関わる問題ですのにっ」
 リズたちが憤慨している様子からするに、クロムが口にしたのはあまりいいことではなさそうだ。
 以前、新しい髪型を試してみたのに丸二日経っても気付かれなかったことがある、と嘆いていたから、クロムは女性の外見に頓着しないのかもしれない。もしくは、気品あふれる姉女王のエメリナの域まで達しないと、彼の感性に訴えかけることができないかのどちらかだ。
 それにしても、クロムがどのようなことを言及したのだろう。会話の流れからして、ルフレの外見についてだとは思うのだけれど。
 胸の辺りにもやもやとしたものがつかえているようだった。ひとりで旅を続けていた時と違い、クロムたちと出会ってからルフレの心はせわしない。
 まるでころころ天候が変わる秋季の空のようだ。ルフレは、不可解な反応を見せる自分の心を持て余し眉根を寄せた。
……クロムさん、何を言ったんですか?」
「ルフレさんは、クロムさんから二度と同じ台詞を聞くことはありませんから、気にしなくて結構ですわよ」
「そうそう、わたしとマリアベルで、お兄ちゃんもびっくりの大変身させちゃうからねっ」
「ええっ? あの、お二人ともちょっと待っ……!」
「問答無用! さあ、行きますわよルフレさん。女は化けるということを、クロムさんに思い知らせてやりますわ!」
 
 その日、ルフレは我が身をもって教訓を得た。
 少女という生き物は、砂糖菓子のように甘く、花のように可憐である。しかし、ひとたび怒らせたなら、砂糖菓子は塩と香辛料の塊に、花は花でも棘を肥大させた薔薇になる。
 抵抗むなしく、有無を言わせぬ気迫を放つ少女二人に引きずられ、ルフレは着の身着のまま自室を後にせざるを得なかった。

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