これは、後にイーリス史に残る稀有なる一対である聖王と聖王妃が、再び動き出した運命という名の嵐に身を投じる前の、ささやかな一幕である。
***
開け放った窓からは、自警団の拠点の中でも奥まった場所にある室内にも、柔らかく、思わずほっと心が緩むような優しい風が入り込んで来る。
イーリスにおいて、まだ自警団の立場も規模も大きくなかった頃は、会議室兼集会所兼休憩所という、要は何でもありな役割を担っていたこの部屋も、ペレジアとの戦が集結し復興が本格的に始まると、徐々にそれぞれの役割を他の部屋に譲っていた。
今では、訪れるのは古参の団員、中でも半年後に聖王としての即位式――ただし、虹の降る山で行われる儀式は当面延期されることから、正式には聖王代理となる――を控える元・団長クロムと共にペレジア戦を戦い抜いた者たちが、時折訪れる程度である。
現在も、室内にいるのは一人だけだった。午後の暖かな日差しに煌めく、長い銀の髪を左右で二つに分けて結った彼女――ルフレは、先の戦いをイーリス側の勝利へと導いた英雄の片割れとはとても思えない、お菓子の家を見つけた子供のような表情を浮かべている。
長椅子に腰掛け、膝上に乗った籠から淡いピンク色の、丸い物体を取り出しては鼻先へ近付け、深々と息を吸い込んでは、うっとりと幸福そうな様子だ。
「ふふふ……。今の時期に桃が食べられるなんて、アンナさんに感謝しないといけませんね」
言葉の通り、彼女が抱える籠いっぱいに収まっているのは桃である。イーリスではほとんど栽培されておらず、普通は商人が仕入れたものを市場で購入する。
薄ピンク色の皮の下にある、僅かに黄色みを帯びた柔らかな白い果肉は甘く、瑞々しい味わいで、一度口にして以来ルフレが好む果実のひとつになった。
ただ、初春である今の時期、市場には流通していない。それが残念だ、と話したことを覚えていたらしいアンナが、各地にいる姉妹たちの伝手を使って様々な産地のものを届けてくれたのだ。
勿論、商魂たくましい彼女のこと、『クロムと結婚したら聖王妃様の好物ってことで売り出すから、どこのが美味しかったか教えてね〜』とちゃっかりお願いもされてしまった。
しかし、そこで嫌な風に聞こえないのは、アンナの、天性の商人らしい愛嬌によるものだろうか。
結婚、という単語に赤面してしまったルフレをからかい倒しながらも、アンナの声音には友人への心遣いが感じられた。
そんな訳で、好物の桃を手に入れたルフレだったが、さすがに好物といってもひと籠まるごとは食べられない。
何より今の時期、普通では手に入れられない果物を友人たちと分け合いたかったこともあり、最近あまり顔を出せていなかった自警団の拠点に出向いてみたのだった。
ちなみに、執務で今日も忙しいクロムの分は取り置いて、城の自室に残してある。
誤算は、誰か一人くらいはいるだろうと踏んでいたのに、部屋がもぬけの殻だったことである。
戦後、志願者が急増したこともあり、自警団の規模は拡大されつつあった。
団長であったクロムは、姉エメリナの後を継いで即位したため――復興を優先したいというクロムの意向もあり、即位式自体は先延ばしにされていた――、以前の副長だったフレデリクが、騎士団と自警団の両方を受け持っている。
古参の団員も、新しい入団者への指導等をしており、忙しい日々を送っていた。
それでも、午後の今の時間帯なら休憩に訪れる者が何人かはいる、と聞いていたのだが。
「うーん、どうしましょう……」
そよぐ風がルフレの長い髪を揺らす。頬にかかってしまった髪をかき上げて、ルフレは唸った。
長椅子に座って待っている間に誰か来ないかと思ったものの、四半刻経っても誰も現れない。
物が他の部屋に移ったことで広々とした室内には、円卓と椅子もあるが、そちらも皆空席である。
籠からまた桃を取り出して、匂いを嗅いでみた。……熟しきって食べごろの、あの芳醇な香りが鼻腔いっぱいに広がり目を細める。
この具合だと、できれば今日、せめて明日には食べて欲しいところだ。誰かに託していきたいけれど、ルフレもクロムほどではないが予定が詰まっており、あまりここでのんびりはしていられない。
桃を手に持ったままうんうん悩んでいると、後ろから伸びてきた何かがひょいと産毛に包まれた瑞々しいそれを取り上げた。
「――――何をそんなに考え込んでいるんだ?」
「……っ!! く、くくくくクロムさん?!」
何の気配も感じなかった筈なのに、と慌てて振り返れば、長椅子に座るルフレの、背もたれを挟んで反対側にクロムが立っていた。
不意を突かれた驚きと、アンナが桃をくれた時にからかい混じりに言った、結婚という言葉を思い出したことで見事な動揺ぶりを示したルフレに、彼は笑いを堪え切れない様子でそのまま吹き出し、「驚き過ぎだぞ」と言ってルフレの髪をくしゃりとかき混ぜた。
以前と同じようでいて、確実に違う手つき。笑いながらも、こちらを見下ろしてくる深い藍色の眼差しはとても優しい。
近頃おなじみの、嬉しいような苦しいような、よく分からない感情が沸き起こり、自分でも気付かない内にうっすら頬を染めてルフレは視線を逸らした。誤魔化すためにやや早口で尋ねる。
「あの……えっと、どうされたんです? 今日はまだ謁見が入っていた筈じゃ……」
「ああ、延期になった。フェリアからの使者が来る予定だったんだが、雪解け水で河が増水して、途中の橋が流されたらしい。迂回するために遅れることを詫びる手紙がぎりぎりに届いた」
「そうなんですか。フェリアは今年、大分雪が積もったみたいですからね。イーリスは比較的暖冬でしたけど……。でも、どうして自警団に?」
「む……お前な」
疑問を口にすると、たちまちクロムの眉間に皺が寄った。桃を籠へ戻す。回り込むなんて悠著な真似はせず、彼は背もたれを乗り越えて行儀悪く腰掛けると、両手でルフレの頬を包み込んだ。
「せっかく空いた貴重な時間だ、恋人と一緒に過ごしたいと思って当たり前だろう?」
少し怒っているような、照れてもいるような表情。
数えるほどしか交わしていない口づけでもするような距離で囁かれた台詞に、今度こそ顔が桃というよりは林檎のように真っ赤になるのを自覚した。
クロムは、記憶喪失の行き倒れという、怪しいことこの上ないルフレを助けて自警団に誘ってくれた恩人である。
一緒にいて居心地がいい親友であり、苦しい戦いを共に戦い抜いた戦友、仲間であり。また、力の限り支えたいと思う半身でもあった。
そして、ペレジアとの戦が集結する間際、彼との関係を形容する言葉がもうひとつ増えた。
それが彼が今言った恋人、である。未だに慣れない、こそばゆい響きだ。
結婚の約束もしているが、まだ正式には公表されていないので婚約者と言うのにはまだ早い、とルフレは思っている。
ともあれ将来、彼の妃になることに違いはないので、既に幾人か教師がついて王妃教育で忙しい。
一方のクロムはクロムで、自国の復興のため日々積み上げられる苦手な書類仕事から、雑多な政務まで文句ひとつ言わず精力的にこなしている。
しかも、ルフレを聖王妃として迎えることに反対する一部の貴族たちを抑えるべく、フレデリク等と一緒に動き回ってくれているので、二人が共に過ごせる時間は激減してしまった。逆に恋人でなかった時の方が、四六時中側にいた気がする。
だから、ルフレとしても彼がこう言ってくれるのは嬉しい。嬉しい、のだけれど。
「あ、あの! ち、ちか…近いです……っ」
「近くない。恋人同士なら、これくらい普通だ。お前もいい加減慣れろ」
心臓に悪い距離感に抗議したが、クロムはとり合ってくれなかった。むしろますます顔を近付けて来ようとするので焦る。
ルフレは、正直まだ恋人同士らしい触れ合いというものに馴染めないでいた。
第一、同性の気の置けない友人に対するような接し方をしていたのは彼の方なのだ。なのにあの情熱的な告白と求婚から一転、こんな風に触れてくるのはずるいと思う。
こちらが恐々として越えられない境界線を、クロムだけがさっさと越えてしまったような、置いて行かれているような感覚。
「少しずつ慣れます! で、でも私、もうお城に戻らないと、」
「問題ない。俺と一緒に『休憩』だと伝えておいたからな、次の鐘が鳴るまでに城へ戻っていればいい」
じり、じり。
どうにか顔を離そうとするものの、そう簡単に事は運ばない。腰を後ろにずらせばずらした分だけ追い詰められ、そう大きくない長椅子のため、すぐに肘掛けに背が当たる。
その拍子に籠が傾いたらしく、桃が幾つか軽い音を立てて床へ転がった。間近で見る深い青に半ば魅入られかけていたルフレはその音ではっと我に返り、片手を突いてクロムを押し返しながら叫んだ。
「そうです、桃! 桃を食べましょう、クロムさん。ね? ね?!」
「……そういえば、籠いっぱいに桃を入れているが……今の時期はイーリスだと手に入らないだろう。どうしたんだ?」
ようやくクロムも距離を置いてくれ、ほっと息を吐く。立ち上がって転がり落ちた桃を拾ってくれた彼に礼を言いながら、早口でまくし立てる。
「私が以前桃が好きだと話したら、アンナさんが持って来てくれたんです。遠方の暖かい地方ですと今でも夏の終わりみたいな陽気で、桃が穫れるそうで。美味しそうでしょう? ちょうど今日くらいが食べごろなんです。でもこんなに私一人じゃ食べきれませんし、皆さんにも食べて頂こうと思ったんですけれど誰もいないですし。どうしようかと思っていたんです。ですからクロムさんも桃を! 食べましょう!」
ほとんど息継ぎせずに言い切って、籠を盾にするように彼の方へ向けて掲げた。心臓はばくばくと音を立てて、もう破裂寸前である。
幸い、クロムはそれ以上距離を詰めては来ず、籠から桃をひとつ取って、先ほどのルフレと同じように顔を近付けて香りを確かめていた。「確かに、食べごろだな。美味そうだ」と嬉しそうに口元を綻ばせて呟く声は、普段の調子に戻っている。
この期を逃してはならないとばかりに、ルフレは布にくるんで籠の中へ一緒にいれておいた小ぶりのナイフを取り出した。桃の皮を剥くには、細かい動きができるこのナイフの方が勝手が良いのである。
「クロムさん、毎日忙しくてお疲れでしょう? 疲れには甘いもの、ですよ。今から剥きますね」
そう宣言して、長椅子の前にあるテーブルに籠を置き、早く心臓を宥めようと必要以上にてきぱきと動き始めたのだった。
***
彼女の恋人はよく食べる。
籠いっぱいに詰まっていた桃の内、少なくとも四分の一をお腹に収めようやくフォークを皿の上へ置いたクロムを見て、ルフレはそのことを改めて実感した。
実に気持ちのよい食べっぷりである。ルフレがどことなく落ち着かず、好物の桃なのに少しずつしか食べ進められないでいる間に、彼は自分でも桃を剥きながら次々と平らげていた。
しかも作法はおざなりになっておらず、綺麗な食べ方をしていて、ルフレを感心させた。
「本当に美味かったな。今度、アンナと顔を合わせたら礼を言おう」
水で濡らした手巾で手を拭いながら、クロムが感嘆しきった声を上げる。隣に座って桃をつついていたルフレも同様に、果汁でべとつく手を拭いて同意した。
「種類によって、少しずつ味が違いましたね。でもどれもすごく美味しかったです」
「その割には、あまり食べていないな。好物なんじゃないのか?」
「そ、それは……その、美味しいものは少しずつゆっくり食べる派なんです!」
「そうなのか? 俺は好物は最初に食べたいんだが……ふあぁ」
話の途中で、クロムが大きな欠伸をする。小腹が満たされたことで、眠気が襲ってきたのだろう。日々の政務の疲れが溜まっている所為かもしれない。
残り時間を計算したルフレは、まだ少し時間があることにほっとして、肩に触れ、彼に休息を促した。
「少し、横になってお休みされた方がいいですよ。時間になったら私が起こしますから」
「そうか。なら、甘えさせてもらうとするか」
「そうです、短い時間ですけど休んで……っきゃ?!」
台詞をすべて口にし終わる前に。本日二度目の、激しい動揺がルフレを襲う。同時に再びうるさいくらいに存在を主張し始める心臓。
状況を、解説しよう。
クロムとルフレは、長椅子に並んで腰掛けていた。ルフレの左隣にクロムがいる状態だ。
長椅子の前にはテーブルがあり、テーブルを挟んだ向かい側にはもうひとつ長椅子がある。
ルフレが考えた『横になって休む』とは、向かいの長椅子に彼が移動して寝そべること、だった。
まさか。まさかまさかまさか。
彼が、クロムが、ルフレの膝の上に頭を乗せてしまうとは!
しかも彼は一番寝心地の良い場所を探すように、もぞもぞと頭を動かしていて、さらには肘掛けに足を置いている。もう、完全に枕扱いである。
「く、くくくくクロムさん?! な、なにしてるんですか?!」
「ん。しあわせを、噛み締めてる」
「えええっ?! 意味が分かりませんよ!」
「ヴェイクが言うにはな、恋人にしてもらう膝枕は男の浪漫らしいぞ」
「それも訳が分かりませんっ」
顔と顔の距離は先程より遠いものの、膝に感じる重さと温みがもたらす落ち着かなさや、気恥ずかしさはほとんど変わらない。
休んでくださいと勧めた手前、無理矢理クロムの頭をどかすこともできず、ルフレは硬直していた。
温かい。重い。くすぐったい。恥ずかしい。
様々な感想が頭の中を駆け巡っている。辺りにはまだ桃の甘い香りが漂っているが、少しも気持ちを落ち着けてくれない。
やっとちょうどよい位置が定まったのか、頭の動きは止まったものの、今度はいたずらな指先が、ルフレの髪先を弄び始めた。
ルフレのことを、『女に見えない』なんて言っていたひとと同じ人間とはとても思えない、愛おしくて堪らないと言わんばかりの動作。
「……なあ、ルフレ。婚約を発表する日取りが決まったんだ」
「え?」
思わず聞き返したルフレの頬を手を伸ばして優しく撫ぜ、彼女の恋人は至極幸福そうに微笑んだ。
「お前を、来月から正式に俺の婚約者として扱う。……実はな、お前を探しに来たのはこのことを伝えたかったからでもあるんだ。驚いたか?」
「それは、驚きましたけど……来月、って……。あの、随分急なお話じゃ」
「何が急なものか。俺は待たされ過ぎて我慢の限界が近かったんだ。テミス伯辺りにはもう少し慎重にと言われたんだが、これ以上は俺が辛抱できん。来月でも遅いくらいだ」
むすっとした様子で語るクロムだが、それが照れ隠しであることは緩みきった口元と、甘さを隠し切れないでいる声音から読み取れる。
一方ルフレは、恋人という関係にすらまだ慣れていないのに、来月から彼の婚約者になると聞かされてどう反応していいのか分からなかった。
心臓がこの短い時間で驚いたり、どきどきさせられたり、甘い空気に落ち着かなさを感じたりと大忙しだったからかもしれない。
それとも、婚約を発表すると言った時のクロムの熱をこめた眼差しに、きゅっと胸が締め付けられるような感覚が襲ってきたのだけれど、それが嬉しいということだったのだろうか。
「……長く待たせて、済まなかった。でもこれでやっと、お前を堂々と俺の婚約者だと皆に言える」
「クロムさん……」
彼の指先は、いつの間にかルフレがいつも首にかけている、銀の鎖を上着の下から引っ張り出していた。
普段、装飾品をつけないルフレが唯一肌身離さず身につけているもので、鎖には指輪を通してある。
求婚に頷いた後、クロムが約束の証にと贈ってくれたのだ。ただ、その時はまだギャンレルとの決戦が控えていたし、エメリナの喪も明けていなかった。
だから二人の関係はまだ公にはしないでおこうと、ルフレから提案して秘密にしてもらった経緯がある。
勿論、クロムの妹のリズや、近侍のフレデリク、自警団の仲間たちなど、近しい間柄の人間は二人の関係が変わったことに早々に勘付いていたり、ルフレたちから報せていた。
ただあくまで現状、公的にルフレは『自警団の軍師』のままであり、夜会などがある度にクロムがもどかしげな様子でいたのを人づてに聞いていた。
貴族たちも、新しく王になったクロムが拾われ者の軍師に執心しているのを苦々しく思いつつ、関係がまだ正式なものになっていないことにつけ込んで、一族の女性を正妃にあてがおうと攻勢を掛けていたようだ。
元々腹芸や駆け引きは苦手だと公言している彼のこと、ルフレを恋人であり伴侶にと望んでいるのだと、口にしたくとも出来ないという状況は相当に苦痛だっただろう。
彼の感じている喜びが言葉や、態度、視線の端々から表れているようで、ルフレも胸の内に湧き出てきた感情に促されるようにして、おずおずと頬に触れている彼の手に自分の手を重ねた。
「……わたし…私、うまく言えませんけど、その……すごく、嬉しいです。これから、あなたの妻として……家族として、あなたと一緒に過ごせるなんて幸せ者です……」
「それを言うなら、俺はイーリス一、いや大陸一の幸せ者だな。お前という伴侶と生涯を共にできるんだから」
「ふふふ。大げさですよ」
自己主張の激しい心臓の音は、いつの間にかとくとくと穏やかなものに変わっていた。じんわりとした、甘いような何かが全身にゆっくりと広がっていく心地がする。
室内に差し込む日差しや風が、暖かさを増したような気がするのは錯覚だろうか。
沈黙がしばし二人の間に流れる。けれどそれは、気まずいものではなく優しく穏やかなものだ。
彼のごつごつした大きな手で触れられると、とても落ち着く。夫婦として、このひととこんな時間をずっと過ごせるなら、何があろうと大丈夫だと、そう思える。
「ああ……そうだ、ほら」
甘やかな沈黙を破ったのはクロムからだった。彼はルフレに触れていない右手で、テーブルの上にある皿から残っていた桃を一片つまむと、そのままこちらへ差し出す。
「ほら、って……ええと……まさか、これを食べろって言ってます?」
「勿論。来月には『婚約者』で、それからすぐに『夫婦』になるんだ。これくらいは慣れておかないとな?」
実に愉しげに笑うクロムは、冗談だと言って引っ込めてくれそうには、ない。
また顔を至近距離まで近付けられていた時のような、妙な空気が漂い始めたことで、ルフレの鼓動はまた早鐘を打ち始めた。
彼は桃の真ん中辺りを持っているから、普通の食べ方をすれば指先も齧ってしまうことになる。
それは……何というか、申し訳ないだけでなく、いつ誰が来るか分からない日中の室内で行うには不適切な行為であるように思われた。
下手をしたら、口づけより恥ずかしいかもしれない。
けれどクロムはルフレの躊躇いを無視して、さらに桃を口元に押し当ててきた。もう、唇にやや黄みを帯びた白っぽい果肉の先端が当たり、じわりと果汁が滲み出たのが分かる。
熟れた桃の果汁は、少し果肉を押すだけで滴り落ちてしまう。このままでは彼の手を汚してしまうと思い、観念したルフレはそっと口を開けて先の方を少しだけ食んだ。
ぎりぎりの妥協点のつもりだったのだけれど、翌月には婚約者になる彼女の恋人は、それだけでは満足しなかったらしい。
残った部分だけでなく指先も、優しく、けれど拒絶は許さない力で口の中に押し込まれてしまった。
「ふ…っ、ん……!」
顔を動かそうとしても、頬に触れていた片方の手がそれを許さない。
桃を咀嚼しようとすれば、彼の指にも歯を立てしまう。咄嗟にどうすべきか決めかねている間に、果肉を離した指先が、口の上蓋をくすぐった。お酒を飲んでしまったみたいに頭がくらくらする。
口を閉じられないので、ぽたぽたと果汁と唾液が混ざり合ったものが零れ落ちていく。甘ったるい香り。
ルフレを食い入るように見つめるクロムの瞳は熱っぽく、獲物を狙う野生の獣を思わせる激しさもあっていっそ怖いくらいだ。何度か交わした口づけの後も、こんな風に見つめられたことがあったように思う。
ただその時はほんの一瞬で、すぐに照れくさいような笑みを浮かべる、いつもの優しい彼に戻ったのだけれど。
それとも、戻ったと感じたのはルフレの錯覚で、クロムがさっき口にしていた『我慢』をした結果だったのだろうか?
でもこれ以上見つめられていたらおかしくなってしまう。そう思ってぎゅっと目をつむりかけ――するりと口腔内から指先が引き抜かれた。
今のうちにと、ろくに味わえないまま急いで飲み込む。クロムはクロムで、口から引き抜いた指――果汁と唾液でべたついている――を自分で舐めていた。
「やっぱり甘いな」と呟いている彼の青い眼差しは、まだ幾らか熱を帯びていたものの、ルフレが怖いと感じた獰猛さは鳴りを潜めている。
安堵のあまり力が抜けてしまい、背もたれにぐったりと寄りかかる。
やはり、『恋人』としてのクロムは、色々な意味で心臓によろしくなかった。今でこの状態なら、婚約者、そして夫婦になったらどうなってしまうのだろう?
自分の心臓が果たしていつまで保ってくれるのか、甚だ不安なルフレだった。
***
一方同時刻、部屋の扉の前では。
「あれれ? ガイアさん部屋の前で通せんぼして何してるの?」
「おう、ちょっとな。遅い初恋を叶えちまったもんだから、青春が暴走してる朴念仁の恋路を見守ってる」
「??? 僕、この部屋に用があるんだけど入っちゃダメ?」
「やめとけやめとけ。お子様には刺激が強すぎるぜ」
「ひどいなあ、もう! 僕子供じゃないよ。この間の戦いでも、魔道士として役に立ったでしょ!」
「自分が子供じゃないって主張している内は子供だっつーの。いいからやめとけ。お前にはまだ早い」
「えええ?! ガイアさんのドケチ! 全身砂糖男!」
「リヒト、お前な……」
「あれ、リヒトにガイア。どうしたの君たち、そんな部屋の前で突っ立って」
「うふふ、部屋の中にルフレの気配が……でも、チッ…あの男と一緒ね……桃色な気配がだだ漏れだわ…呪ってやろうかしら……」
「あら、皆さん廊下で立ち話なんてお行儀が悪いですわよ? 何か有りまして?」
とまあ、こんな具合で古参の団員が次々と集まってしまい、それからしばらくして城に戻るべく扉を開けたクロムとルフレは、皆にからかい倒されることになるのだった。
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