風がそよそよと吹く度に、どこかから甘い初春の匂いが香る。芽吹きはじめた若々しい緑と、蕾を綻ばせ始めた花々の匂いだ。ここ、イーリスの聖都は大陸北方に位置するフェリアに比べれば温暖であるものの、やはり皆の春を待ち望む気持ちは変わらない。
とは言え、道行く人々の顔が明るいのは何も春の訪れを歓迎するばかりでもないだろう。その理由の一端を担った彼女――ルフレが同じ通りにいることを、人々は気付いていないが、そんなことは気にせずに、にこりと微笑んで胸いっぱいに甘い春を吸い込んだ。
(やっぱり、街に出て来てよかったかもしれませんね)
実は近頃、少しだけ気が塞いでいたルフレだった。けれど顔がよく見えないよう、すっぽりフードを被って城下へ下りてみると、思った以上に気持ちが浮き立つのを感じる。
何しろ、ペレジアとの戦争がイーリス側の勝利で集結した為に、従軍した兵たちの帰還後はお祭り騒ぎとなって大変だったのだ。あれから数ヶ月経ったが、未だに余韻は抜け切らないらしい。一時期占領されていたにも関わらず聖都の住人は逞しい。
そんな彼等の熱気に、ルフレも感化されたようだ。せっかく街に来たのだし、新しい本でも買いに行こうか。そう思って馴染みの店へ出向こうと大通りを進んで行くと、どこかから彼女を呼び止める声がする。
「娘さん娘さん、ちょいとお待ちなさい」
「へ?」
始めは違う人物のことを呼んでいると思ったのだけれど、やけにはっきりと耳元で響くように感じられたのと、その声に聞き覚えがある気がして、周囲を見渡し、声の主を探す。
すると路地裏に入る角辺りに小さな天幕が張られた場所があり、そこの入り口に立つ老人はルフレと目が合うや、まるで知り合いを見つけたので、少し寄って行かないかと言うように大きく手招きをし出すではないか。
以前に会ったことのある人物だっただろうか、と首を捻りかけたルフレだったが、すぐにああ、と破顔して老人のところまで駆けて行く。
「こんにちは、占い師のおじいさん」
「ふぉっふぉふぉ。久しぶりじゃのう、お嬢さん。忘れられていなかったようで何よりじゃわい」
「まあそんな、忘れませんよ。色々相談に乗っていただいたじゃありませんか。あの時は本当にありがとうございました」
そう微笑みながら口にした後、彼女は被っていたフードを外して顔を顕にし、頭を下げた。最初にすぐこの老人だと思い至らなかったのは、以前彼と出会ったのはこの通りから相当離れた別の地区だったからだ。決まった場所に店を構えているというよりは、客がいそうなところを転々とする、というやり方を取っているようだ。
助手らしい人物は見当たらないが、天幕の設営等はひとりでやったのだろうか。もしそうならば見た目に反してなかなか元気な人だ。
「いやいや、いいんじゃよ。それはそうと相手の男とは上手くいったかの」
「え、えっと……はい。お陰様で」
問われた内容に思わず顔が赤らむのを抑えられない。熱くなった頬を誤魔化すように両手で隠す。
実は先日、クロムに避けられ続けていた時期があり、理由も何も分からず悩んだルフレがひとり街を当てもなくうろついていたところ、今日と同じように道端で占い小屋を構えていたこの老人に出会ったのだった。
半ば強引に占い小屋へ連れ込まれ、彼に占ってもらったところ、『ラッキーアイテムは酒じゃ! とにかく酒じゃ!』と信じて良いのやら甚だ怪しい助言を貰ったのだが、これが何故か大当たり。自警団の詰所で酒を浴びるほど飲んだ(その時の記憶は残っていないのだけれど)次の日から、不思議とクロムに避けられることはなくなった。
それどころか、クロムが自分を女性として好いてくれていることが分かり、戦場ではあんなに凛々しく堂々としている人がしどろもどろになって愛の告白をしてくれて。
嬉しかった。彼から気持ちを伝えられて初めて気が付いたが、ルフレもずっとクロムのことが好きだったのだ。多分、あの草原で出会った時から既に惹かれていたのだと思う。
でもまだイーリスは戦災からの復興に尽力しなくてはならない時期で。だから気持ちを伝え合っても、まだクロムとルフレの関係は公にされていない。せいぜい、フレデリクやリズ、自警団の仲間たちといったごく身近な人々にしか伝えていなかった。
(私……もしかしたらそれが不満、なんでしょうか……?)
平和になったら、と。
すべて終わって平和になるその時まで、まだ聖王代理とその軍師のままでいましょうと告げたのはルフレだ。それなのに、些か勝手すぎはしないか。
しかし近頃のクロムは慣れない政務に忙殺されていて、それはルフレも同様だったので、数日まともに顔を合わせられないこともざらだった。なのに貴族の令嬢たちは、実質的に聖王代理の立場になったクロムの気を引こうと、城内で待ち伏せ、偶然を装って話しかけたりしている。
中には相当露骨なやり方をする令嬢もいるのだが、クロムはクロムで、女性に礼儀正しいのだと言った以前の言葉通り、彼女たちを邪険に扱ったりはせず、丁重に対応していて。
そんな光景を見かける度、心の中が嵐の前触れのようにさざ波立つのだ。
せっかく街に来て気を紛らわせることができたと思ったのに、結局また思い出してしまった。
「ふむ。また何か悩みがあるようじゃな」
「いえ、その……」
「そんな顔をしておると幸せが逃げるぞ。ほれまた、この爺が娘さんの恋の行方を占ってしんぜよう」
最初は恋する乙女そのものといった様子で頬を染めていたのに、次第に暗い顔になってしまったルフレを見て、老人は重々しい口調で彼女の手を取り、天幕の中へ招き入れる。大人しくついて行きながら、世の中には都合の良い偶然というものがあるのだなとルフレは思った。
恋人とも、婚約者とも呼べない、曖昧な約束しかしていない関係のクロムと彼女。
指輪も決心が鈍ってしまうからと受け取らずにいたし、それこそ口付けなど一度もしたことがない。
ただ、好きだと言ってもらえて、自分も好きと伝えただけ。
あの時の自分は世界で一番幸せ者だと思ったけれど、時間が経つにつれ不安になる。すべて夢だったのではないか、自分に都合の良い幻想だったのではないか、そんな風に思ってしまうのだった。
天幕の中は光が遮られて日中なのに薄暗く、中央の辺りに置かれた小さな卓の上の水晶球が、淡い光を放っているだけだ。この空間の中にいると、目の前の老人が何か只者でないように感じられ、ルフレは知らず知らずのうちに息を詰めていた。
小さな丸椅子に腰掛けるように言われ、素直にそれに従うと、前回のようにすぐ占い始めず、老人はがさごそと端の方を引っ掻き回している。水晶球は卓の上にあるけれど、占うのに他の道具でも必要なのだろうか。
「おお! あったあった、これじゃこれこれ」
しばらくルフレを座らせたまま何かを探しているようだった彼は、ルフレが声を掛けようかどうしようかとそろそろ迷い始めた頃、ようやく狭い天幕の奥から戻り、手に持っていたものを差し出した。
「……? 石、ですか?」
「なんじゃその顔は。こいつはの、ただの石ではないぞ。今まで数多くの悩める乙女を導いてきた、素晴らしく霊験あらたかな石じゃ」
芝居がかった口調で説明されたものの、いくら眺めてもとてもそのように効果があるものには見えない。白と黒、まったく正反対の二つの色を持つ楕円形の石は、綺麗に研磨された表面につややかな輝きを宿していて、綺麗なことは綺麗だが、それだけだ。
しかし老人はおほん、と儀式張った咳払いをすると、ルフレと向き合う形で腰掛け、右手には黒い石を、左の手には白い石をそれぞれ乗せ、彼女へ示しながら厳かに語り始めた。
「さあ娘さんや、お前さんを悩ませておる相手の男を思い浮かべてみなさい。目は瞑っての」
「は、はい……」
言われた通り、目蓋を閉じクロムのことを思い浮かべる。占い師がこの口調で話し出すと、何故か逆らえないのだ。職業柄、人を惹き込むのが上手いのかもしれない。
(クロムさん……好き、だいすき、なんです……)
胸の奥から愛おしさが溢れて止まらなくなる。自分と彼の名以外、記憶がまったくなく空っぽだったルフレにすべてを、それこそこんな愛しさも、苦しさも、切ない想いすら与えてくれたクロム。
一度気付いてしまった恋心は、最早どうすることもできないくらい、ルフレを深く捕らえてしまって離さない。ほとんど顔を合わせない日が数日続いただけで、不安に襲われるほど。
まだまだ戦災からの復興もこれからの段階で、軍主と軍師が私情を交えて幸せに浸る訳にはいかないと、分別を発揮したのは自分自身だったというのに、情けない。それでもこれが、心偽らざる彼女の本音だった。
彼ともっと一緒にいたい。話がしたい。声が聞きたい。笑顔が見たい。彼にして欲しいことがたくさん、たくさんある。
「さあ、目を開けてよいぞ」
言われるがままルフレは伏せていた睫毛を持ち上げた。視界に映るのは、先刻までと同じく老人の手に乗った二つの石。けれど違うのは、その内のひとつが、片方の石よりやけに強く、まるで誘うように抗い難い光を放っているように感じられることだ。
これは、いったいどういうことなのだろう。訝しがる彼女の瞳を覗き込むようにしながら、老人は儀式張った口調のまま尋ねる。
「……娘さん。先ほどは、これがただの石だと思っていたようじゃが、今はどうかの」
「え? あ、はい。あの……」
「片方の石に、とても強く心惹かれるじゃろう」
こくり、と声には出さずルフレは頷いた。その通りだ。最初に見た時は何の変哲もない、普通の石のように思えたが、今は違った。
「娘さんの気を惹いたのは、どちらの石か……選んでみなさい」
静かに促され、ルフレはもう一度老人のしわだらけの掌に乗った石をじっと見つめる。
ひとつは、白い石。降り積もった雪の冷たい感じの白とは異なり、柔らかく、温かみのある色だ。心が穏やかになりそうだと、そう感じる。
もうひとつの石は黒。夜空よりも更に深く、月明かりや星の瞬きすら感じられない闇色。吸い込まれそうで不安になるが、かと言って目を背けるのも何故か躊躇われる。
ルフレが選んだのは――――。
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