仲良くなりたい人たちに説く七題
2.寝顔の観察もほどほどにしなさい。
その日、ぱらぱらと硝子窓を打つ雨音を聞きながら目を覚ますと、夫のクロムはまだ微睡みの中にいるようだった。これはひどく珍しい事態だ。
何しろ彼ときたら体力が底なしで、閨の中でルフレが明日は早いですからと、遠回しに『一度だけ』と請うているにも関わらず、たったの一回としてその願いを聞き入れてくれたことはない。
けれど自分もいけないのだとは分かっている。口ではいくら翌日を気にするような言葉を紡いでいても、彼に触れられれば何も考えられなくなって、彼の声しか聞こえず、彼の熱しか感じられなくなり溺れてしまう。
だからルフレは、いつもだいぶ前に起きていたらしいクロムに髪を梳かれている感触でぼんやり覚醒するのだ。
青い視線と絡み合えば、夫はとろけそうに甘い笑みを浮かべておはようと囁く。クロムが優しく自分を抱き締めながら名を呼んでくれる、その時間がとても幸せで、結局何も言えずに許してしまう。
そういう訳なので、こうしてクロムより先にルフレが目覚めたというのは月に一度、あるかないかの非常に稀な事態だった。彼の寝顔が見られるなんて何という僥倖だろう。もっとよく見たくて慎重に慎重に、体勢を変えてクロムの方へと向き直る。
(ふふ、やっぱり寝ている時のクロムさん、何だか可愛いです)
彼女を包み込むようにしている逞しい腕や、向きを変えたことで視界に飛び込んでくる鍛えられた身体は、女性のルフレとはまったく異なる、大人の男性のものだ。それなのにそっと覗き込んだ、夫の眠りの世界を彷徨う顔付きは少年のようで。
昨晩ずっとルフレを翻弄し続けた、いっそおかしくなってしまいそうな熱を与え続けた行為の際のクロムの表情とは真逆だった。それに、日中、聖王代理として政務を執ったり、武術の稽古をしたりする時の凛々しいそれとも違う。
久々に見たクロムの無防備な寝顔に、ルフレは胸の内が温かくなるような、きゅっと締め付けられるような心地を味わった。これがしあわせ、というものなのかもしれない。
そろそろと手を伸ばし、青い髪に触れてみる。癖があって少し硬い夫の髪。
ふいにルフレはくすりと笑みを漏らした。先日、半日だけ共に休暇を取って遠乗りへ出掛けた時のことを思い出したのだ。
小川を見つけたので休憩しようということになり、クロムに手を取られ馬から降りた、その直後のことだった。きちんと地面に足を着けたところまでは良かったのだが、いきなり抱擁を受け、口付けられそうになった。
ルフレは驚いて、何よりすぐ傍に相乗りしてきた馬もいるし、本当に道端だったので誰か通るかもしれないし、と恥ずかしさの方が勝って反射的に彼を突き飛ばしてしまったのだ。そしてその後ろにはさらさらと流れる清流があり、当然のことながらクロムは盛大にひっくり返り全身ずぶ濡れになってしまった。
『何故夫の俺が、妻であるお前を抱き締めようとしただけでこんな目に遭うんだ』、と彼はさんざんぼやいていた。ルフレが涙目で必死に謝るので何とか許してはくれたけれども。
(だって……あの時は本当に恥ずかしかったんですよ? それに、近くにポレナもいましたし……)
未だすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てるクロムに、そう心のなかで抗弁してみる。彼は所構わずルフレに触れたがるので、彼女としては心臓がいくつあっても足りないと思っているところだ。勿論、嫌なわけではないのだけれど。
今日は久々の、二人揃っての休暇だ。しかも丸一日。この日の為にと、書類仕事が苦手な夫が猛然と机の上に積み上げられた決裁書類の山に目を通し、判を押し続けていたことを思い出しながらルフレはまた微笑んで、髪を撫ぜていた手をクロムの頬へと移した。
そのまま、顔の形を確認するように何度か往復させて、今度は指先で唇をなぞる。昨夜、何度も何度もルフレ、と宝物のように自分の名を呼んでくれたそれ。
彼に名を呼ばれるのが好きだ。ここにいてもいいのだと、お前の居場所は俺の隣だと、言外に伝えてもらっている気がするから。
今日は一日、何をして過ごそうか。そんなことを考えながら、夫の唇に触れていた指先を、自分の同じ部分に重ねてみる。クロムの温かさがじんわりと染み込んでくるような気がして、とても幸せな気持ちになった。
もう一度、今度は直接唇で触れてみたい。そんな誘惑に抗いきれなくなって、そうっとそうっとクロムを起こさないように身を起こしかけ――――。
「きゃあっ?!」
突如視界がくるりと反転し、起き上がろうとしていた筈なのにルフレは再び敷布の海に沈んでいた。犯人が誰か、何て疑問に思うことすらなくすぐに分かる。ここは聖王夫妻の為の寝室で、しかも寝台の上だ。こんなことをするのは一人しかいない。
その人はルフレに伸し掛かるような形で「おはよう、ルフレ」と寝起き特有の掠れた声で囁いた。
「も、もうクロムさんっ。いきなりびっくりするじゃありませんか!」
紗幕越しに感じる朝陽は眩しいというのに、夜、二人きりの甘い時間のように極々至近距離で囁かれ思わず赤面してしまう。それどころか、彼の手は何やら朝の爽やかな空気には似つかわしくない、怪しい動きを見せ始めているのだ。慌てて抗議の声を上げようとするのだが、その前につい先ほど触れたいと思っていた唇に塞がれる。
しかもほとんど間を置かず口付けは深いものに変わってしまい、抵抗しようとする力が抜けていく。
「……ふ、ぁ、やぁ……だ、めです……きょう、は……」
せっかくの、お休みなのに。
口付けの合間に途切れ途切れに囁く妻の意図が伝わったのか、クロムはほんの少しだけルフレを解放してくれた。だがそれから続けられた言葉は。
「すまん、ルフレ。もう限界だ」
夫のその発言を最後に、またルフレはとろとろに思考を溶かされ、今日一日何をしようかと、眠るクロムを眺めながら考えていた計画もすべて流され、何も分からなくなってしまったのだった。
*
結局その後二人は濃密な触れ合いの時間を過ごし、更には翌日ルフレは丸一日寝室から出て来られなかった。体調を崩したので、ともっともらしい説明をクロムがしていたが、それが嘘であることくらい、にやけきった彼の顔を見ればほんの子供ですら分かっただろう。
寝台の上でむくれるルフレに、寝たふりをして少し驚かせてやろうと思っていたところに、あんまり可愛いことをされたものだから歯止めが効かなくなったんだ、とちっとも悪びれていない様子で言われたので、これからは寝顔の観察はほどほどにしようと固く心に誓ったルフレだった。
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