→ 心が安らぐような白い石
「白い石の方が……見ていてとても落ち着きます」
そう言って、ルフレは老人の左手に乗せられた白い石を指さす。心安らぐように感じるのが何故なのかは分からない。けれど優しい白を眺めていると、小鳥が大層居心地の良い陽だまりを見つけて羽根を休めているような、質の良い毛布ですっぽり包まれて微睡んでいるような、そんな安心感を覚えるのだ。
「ほほう~なるほどなるほど」
「え、あの……」
ところが彼女がそう答えるや、老人はにやり――或いはニタリ、と形容してもいいかもしれない――と意味深な笑みを浮かべた。いつか、誰かがこんな表情を浮かべていたのを見たことがあった気がする。そう、確かリズや自警団の仲間たち、クロムとルフレの関係を知っている彼らが、手ひとつ繋ぐのにも互いに顔を真っ赤にしてしまう二人を茶化す前、同じようににやにやと人の悪い笑い方をしていたような……。
「いや〜青い春じゃのう。甘酸っぱいのう。儂も婆さんに一目惚れして食事もろくに喉を通らんかった頃を思い出すわい」
「仰っていることの意味がよく分からないのですけれど……?」
そもそもこの老人は結婚していたのか。困惑気味の声を上げるルフレに、彼は「いいんじゃいんじゃ」と手をぱたぱたと振り、存外強い力で白い石を握らせてきた。感じる仄かな温み。近頃クロムとほとんど話もできない所為でずっと隙間風が吹き込んでいるようだった心に、優しい明かりが灯ったようだった。
老人に、クロムのことを思い浮かべてみろと言われる前は、本当にただの石のように思えたのに。不思議だ。
ルフレがまじまじと自分の手の中に収まった白い塊を眺めていると、先程までの威厳はどこへやら、老人は好々爺然として笑いながら白い髭を撫で付けた。
「ふぉっふぉっふぉ。娘さんや、今日は花のある場所に行ってみるといいかもしれんぞ」
「花、ですか? 中庭辺りでしょうか」
「さてのう。儂に見えたのは花に囲まれた娘さんと、青い髪の男が熱〜い口付けを交わしておるところだけじゃ」
「そうなんですか、熱いくち……って、ええええええっ?!」
がたん、がたがたがたんっ!!
派手な音を立ててルフレは地面に転がった。紅潮した頬は熟れた林檎か、湯上り直後かといったところだ。そんな彼女の様子を見て占い師はまたにたり、と同じ笑みを浮かべる。もう、占い師というよりは人の恋路に口を挟むのが趣味の、おせっかい焼きの老人と言った方が正しい気がしてきた。
そうこうしている内に天幕を追い出されて、仕方なくイーリス城に戻ったルフレだったが、あまりの動揺に占いの代金を支払うことも、新しい本が入荷していないか見に行こうとしていたこともすっかり忘れてしまっていたのだった。
***
そして、数刻後。
ルフレは気が付くと王城内に幾つかある中庭、その中でもクロムの執務室と近いところに位置する庭に立っていた。手には、お守りだと占い師の老人に渡された白い石がそのまま握られている。
「ど、どうしましょう……」
茜色に染まりつつある陽に照らされて、赤く色づく花々に囲まれながら途方に暮れたように囁いて、辺りを見回す。人気はない。ただ王宮付きの庭師の手で整然と、けれど華やかさは失わないよう手入れされた幾つもの花たちがそよそよと春風に揺られているだけだ。
いつもならば綺麗だと、それしか思わないのに、今のルフレは花を見ると老人に言われたあの言葉が蘇ってきてしまい、再び夕陽の所為ばかりでなく頬を赤らめ俯いた。
どうしてここに来てしまったのか分からない。確かに花のある場所に行ってみるといい、とは言われたが、これではまるでクロムとの口付けを期待してしまっているようではないか。
「でもここにいたら、クロムさんに会えるかもしれませんし……」
「――――俺が、どうした?」
「ひゃぁっ?!」
素っ頓狂な声を上げて文字通り飛び上がり、勢い良く後ずさる。その拍子に手に持っていた石が転がり落ちてしまい、あ、と思った時には既にいきなり現れた(ようにルフレには感じられた)クロムが、石を拾い上げているところだった。
彼は何の変哲もない石をルフレが持っていたことにやや首を傾げていたが、苦笑交じりの笑みとともにそれを差し出してくれる。
「ほら、落ちたぞ。それにしても驚きすぎじゃないか、お前」
「……あ、ありがとうございます」
蚊の鳴くようなか細い声でやっとそれだけ言って、白い石を受け取る。その時に彼の骨ばった大きな手に触れ、久しぶりのような気がする温もりに胸の奥の辺りがきゅっと苦しくなった。
恐る恐るクロムを見上げれば、彼は少し困ったような、けれど優しい微笑みを浮かべてルフレに視線を落としていて。いつもはもう、それだけで嬉しくてどうにかなってしまいそうなのだが、今日のルフレは更に羞恥で顔が赤らんでいくのを止められない。
クロムの端正な――そう、彼は真剣な表情や、優しい表情をするとより分かるのだが、整った顔立ちをしている――造作の中のある部分、はっきり言ってしまえば唇に目線が吸い寄せられてしまうからだった。
気恥ずかしさを誤魔化すように、努めていつも通りに振舞おうと口を開く。平常心だ、平常心。これくらいで動揺していては、イーリスが誇る天才軍師の名が泣く。
「あの、クロムさんはどうしてここに?」
「いや……。今日は大分早く予定していた仕事が片付いたんだ。そうしたらその、お前の顔が見たくなってだな」
「えっ」
しかしルフレの努力はほんの一瞬で無駄になった。かあっと顔どころか耳まで熱くなるのを自覚したがどうすることもできない。一方のクロムも、ほんのり頬が赤く染まっていた。おそらく、夕焼けの所為ではないだろう。
互いに見つめ合ったまま硬直することしばし。先に動いたのはクロムの方からだった。彼は一度、はっきりそれと分かるほどごくりと喉を鳴らして唾を飲み込む動作をすると、意を決したように右手でルフレの頬に触れる。
ただでさえ早かった心臓の鼓動が、ますます早くなってしまった。
「……ルフレ」
「は、はひっ」
声が裏返る。恥ずかしい。けれどそれ以上にもっと恥ずかしいのは、真剣な表情のクロムに至近距離で見つめられているということだ。こんな距離で視線を交わし合ったのは、多分彼に想いを伝えられたあの時以来かもしれない。
暴れ狂う心臓を宥めようと必死になっているルフレの頬を優しく包み込んだまま、赤い顔の彼はゆっくりと唇を動かす。
「平和になったら……俺の気持ちを受け入れてくれると、それまではまだ聖王代理とその軍師のままでいようと、以前お前は言ったよな」
「はい……そう、です」
だが今になって思えば、あれはとんでもないやせ我慢だった。クロムからずっと好きだったと告白されて本当は一も二もなく頷いてしまいたかったのに、記憶がなく素性も全く分からない自分がやがて聖王となるクロムの妃になってよいのかだとか、ここで彼を受け入れてしまうと今後の復興業務で公私混同をしてしまいはしないか、などといったありとあらゆる懸念が頭の中を駆け巡り、自分の素直な想いを押さえつけてしまったのだ。
「俺も、今のこの時期に公表するのはまだ早いと思う。もう少し復興が進んで、国内が落ち着いてからがいいだろう、とも」
だが、とそこで一呼吸置き、彼は頬に触れた手をゆっくりと動かして、長い指先でルフレの唇をなぞった。気が付けば、クロムの深い青の瞳は見間違えようもないくらいはっきりとある種の熱を帯びていた。
どきりと胸が高鳴る。色恋には不慣れなルフレでも、こんな表情で見下ろされ唇をなぞり上げられて、彼が何を求めているのか分からぬほど物を知らない訳ではない。
「その……お前のことは大事にしたい。それは本当に本当なんだ。だが、俺も男だし、な。色々と溜まってしまうというか何というか……」
溜まるって何がですか?! とは聞けなかった。クロムの指先が触れているから、少しでも口を開くと指を食んでしまいそうで動かせない。そして言葉を紡いでいく度にどんどん赤みを増していく精悍な顔、熱っぽい青の瞳からも目が逸らせなかった。
心臓はもうはちきれんばかりで、彼に負けず劣らずこちらの顔も赤いのだろう。恥ずかしい。とても恥ずかしい。けれど嫌ではないのだ。想い人にこんな風に触れられて、見つめられて嫌な筈がない。
ルフレが黙っていると、クロムはそっと上体を傾け、より一層顔を近づけてきた。それこそ、唇が重なり合いそうなほど近くに。ぱちぱちとせわしなく瞬きを繰り返す彼女の視線を捉えて、クロムがおずおずと続きを口にする。
「だから、その……偶にだな、く、口付けするくらいは許して欲しいんだが……駄目、か?」
(そ、そんなこと許可を求められても……っ!)
これ以上熱くなりようがないと思っていた顔周りの熱は、今や全身に回ってしまっていた。もしかしたら首筋まで真っ赤かもしれない。
それにクロムはこちらの意見を伺うような口ぶりだが、反論を許さないかの如く指先で言葉を封じているのは彼だ。いや、このままだって話をすることはできるけれど、恥ずかし過ぎてルフレの方が無理だった。
だがクロムは、あとほんの少しでも顔を近づければ唇同士が触れ合う位置で止まったまま、それ以上動こうとしない。こちらの意志を尊重してくれる気持ちは本当のようだ。ただひどく切羽詰まった表情をしていて、彼もぎりぎりのところで踏みとどまってくれているのが分かる。
そのことにルフレは堪らなくなった。勝手に不安になって、ひとりで悩んで。クロムはこんなに自分のことを大切にしてくれているのに。好きだと真摯に告げてくれた言葉を疑ってしまうなんて。
まだ心臓の音はうるさいくらいだったが、クロムの問いへの返答の代わりに、そっと目蓋を閉じる。彼が息を呑む気配がした。口付けを求められて睫毛を伏せたのだから、この仕草は了承以外の何者でもない。
唇に触れていた指先がふと離れる。それを名残惜しく思いながらも、彼の行為の続きを待った。クロムのものであろうやや硬めの髪の感触を顔に感じる。もう片方の手とあわせて両の手で頬を包み込まれ、少しだけ上向かせられて――ぴり、と痺れのような感覚が唇に走った。
思わずびくりとして閉じていた瞳を見開くと、驚いたような表情のクロムと目が合う。……彼も、この感覚に驚嘆したのだろうか。
不思議な感覚だ。雷に打たれたのとはまた違う。もっと甘くて、心臓の辺りから蕩けて全身がふにゃふにゃと崩れ落ちてしまいそうだった。そこに不快さは一切なく、むしろもう一度とさえ思ってしまう。
「もう一度……しても?」
彼女の内心を見透かしたような小さな囁きにルフレが頷くか頷かないかのところで、再び唇が重なった。今度はすぐに離れたりせず、クロムは互いにとって初めての感覚を確かめるように少しずつ少しずつ、触れ合う面積を広げていく。きつく目を瞑り、息を詰めてルフレはされるがままになっていた。
それから呼吸を忘れかけた彼女が苦しさに喘ぎ出すと一度解放してくれたが、すぐにまたあと少し、もう少しと求めるクロムに抗えず、始めは触れるだけであった口付けは次第に濃密な交わりへと深度を増して――――。
やがて全身からすっかり力が抜け、クロムの支えなしでは立てなくなるほどになるまで、ルフレは愛しい想い人からの求めに応じ続けたのだった。
***
「あれれ、フレデリク? お兄ちゃんを探しに行った筈なのに、こんなところでどうしたの?」
ひょっこり回廊の角から顔を覗かせたリズに、フレデリクはにこりと微笑み返した。中庭へと続く細い道を自らの身で塞ぎながら、である。
「いえ、クロム様が取り込み中でしたので、こちらで待機しておりました」
「え、取り込み中? なになに? 気になるー!」
「いけません、リズ様。教育上よろしくありませんのでこれ以上先に進むのはお控え下さい」
好奇心旺盛な王女の前に立ち塞がり、仕える聖王家の人々に忠実な騎士は内心大きなため息を吐く。
実はクロムの今日の仕事が早く終わった、というのはフレデリクが手を回した為だった。何しろ近頃の主君ときたら、一時期はこの世の春を全力で謳歌しているようだった浮かれぶりから一転、悶々としていることが多く、日々の公務の進行に滞りが出始めていたのだ。
原因は分かる。どちらも、クロムが半身と頼みにする軍師である女性、そして妹姫にすら朴念仁と容赦なく評されるほど色恋沙汰に疎い彼が、その鈍さを遺憾なく発揮してなかなか己の気持ちに気付けなかった想い人、ルフレに関することだ。
あまりに進展しない二人の仲に周囲がそろそろ痺れを切らし始めた頃、やっと互いに気持ちを伝え合ったのだと分かり、胸を撫で下ろしたのは先日の話。しばらくは頬が緩みきっていたクロムだったが、次第に日が経つと纏う空気が重苦しいものに変わっていく。
さり気なく事情を聞き出せばある意味『お預け』を食らったようなものだから同情はするけれど、仕事に支障が出るのはいただけない。
そこでフレデリクはクロムが最近ほとんど顔も合わせていないルフレと、ゆっくり話ができるようにとの思いから仕事の量を調節したのだが……。
(まさか……クロム様がああまで箍を外されてしまうとは)
主君とその想い人を発見してしまったのは本当に偶然だった。
騎士団の訓練から管理の差配から細かな雑務まで、戦後の人材不足が極まる中、王の近侍としてありとあらゆる仕事をこなすフレデリクだが、時には短い時間でも花を愛でたくなることがある。
そこで、王城内に設けられた中庭の中で、一番近場だったこの先の中庭に行ってみようと足を向けたのだが、途中で微かに悩ましげな女性の声――音が遠かったので分かりづらかったが、どことなく聞き覚えが合った――が聞こえてきたのだ。
妙な予感があり、そっと近付いて行って様子を窺えば、主君は想い人を抱いて熱い口付けを交わしている真っ最中で。
いかに周囲に人気がなかろうとも、誰かが通りかかり聖王代理とその軍師の情熱的な逢瀬を目撃してしまうかもしれない。
そう気を揉んだフレデリクは、咄嗟に音を立てないようにして中庭に続く小路の始まりまで戻り。それ以降、誰が来ても中庭に近付かせないよう、この後残っていた諸々の用事も何もかも後に回し、門番よろしくここに立ち続けていたのである。
だから忠誠心が行き過ぎて、世話焼きの母親のようだと噂される騎士は気が付かなかった。初めての口付けに翻弄されるルフレの手から転げ落ちた白い石が、ころころと茂みの方へ転がり、春の陽だまりのような暖かい光を放って消えたことに。
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