――――お前と、『家族』になりたいんだ。
たったひとりの肉親である母を亡くし、ひとりぼっちになってしまったルフレの手に指輪を握らせて、あの人は優しくそう言ってくれた。
嬉しかった。
本当に、夢ならこのままずっと覚めないで欲しいと思うくらい嬉しかった。
一生分の勇気を振り絞って告白しようとして、逆に好きだと告白された時も嬉しかったけれど。
まさか、結婚相手なんて良い家柄のお嬢様から選びたい放題の彼が、みなしごになってしまったルフレにプロポーズしてくれるなんて思わなかったから。
だから彼から家族になりたいと言われて、一も二もなく頷いた。
喪が明ける前に済まない、と何度も謝られたけれど、娘が幸せになるなら母は許してくれる気がした。
それに、彼と離れたくなかった。ルフレ、と名前を呼んでくれる優しい声も、何も不安に思う必要なんてないと言うように、力強く抱き締めてくれる逞しい腕も、ルフレを安心させてくれる暖かな笑顔も、全部。全部、失いたくなかった。
でも――――。
***
こぽこぽ、と音を立てて、コーヒーメーカーから黒褐色の液体がマグカップに注がれていく。二人で新しい生活を始めるに当たって、駅前の雑貨屋で色違いで購入したものだ。
クロムが青で、ルフレが桜色。本当はルフレも青系の色が良かったのだけれど、理由を説明するのが気恥ずかしくて、結局二番目に好きな色にした。
二つのマグカップをコーヒーで満たし終わった後、自分の分を前にして少しだけ悩む。
(いつもなら、お砂糖とミルクを入れるんですけど……)
コーヒーの香りは雑多な思考を落ち着かせてくれる気がして好きだが、まだブラックで飲むのは苦手だった。
でも、クロムはいつも何も入れずに、ルフレからしたら苦くてとても飲み干せないものを美味しそうに味わっている。
ブラックコーヒーをさらりと飲めるようになれば、少しはクロムのように『大人』に近付けるのではないだろうか。
「よし……っ」
小さく頷いたルフレは、結局ミルクも砂糖も加えないままのマグカップ二つをトレイに載せた。
キッチンから出て、リビングに繋がっている方のドアを叩く。
ほとんど間を置かずドアから顔を出したクロムは、ルフレを見て嬉しそうに破顔した。
「ああ、コーヒーを淹れてくれたのか?」
「はい。そろそろお疲れじゃないかと思って……。眠気覚ましにどうですか?」
「ありがとう。中に入ってくれ、少し話そう」
机に向かう時のクロムは、普段はしない眼鏡を掛けている。視力は悪くないどころかすこぶる良いのに何故かといえば、一箇所に座ってじっとしているのが苦手な彼に、彼の姉であるエメリナが昔アドバイスをしてくれたらしい。
これをすれば集中できるという儀式を何かひとつ決めたらどうか、と。
それで度の入っていない眼鏡を掛けることにした、というのを知り合ったばかりの頃に聞いたのだけれど、初めて見てから数年経つのに未だにどきどきしてしまう。
彼はいつもとびきり素敵だけれど、眼鏡を掛けると普段と印象が随分変わるのだ。格好良過ぎて、少し困ってしまう。
頬がほんのり熱を持つのを自覚しながら、「……お邪魔じゃありませんか?」と恐る恐る問い掛ければ、優しい笑みが返される。
「可愛い『奥さん』を、邪魔だなんて思うはずないだろう? ちょうど一息いれたいと思ってたんだ。休憩に付き合ってくれると嬉しい」
「は、はい……!」
奥さん。
彼の口から発されたその言葉に、たちまち心拍数が上昇していく。
もう頬どころか、耳まで真っ赤な気がして、か細い声で返事をする以外は何も言えずに、室内に入った。
二人の住んでいるのは間取りが2LDKで、築年数がやや古めのアパートの2階にある部屋だ。
駅から少し遠いのと、大家が以前ルフレと母で住んでいたアパートと同じ人で、天涯孤独になってしまったルフレを気にかけてくれていたこともあり、最寄り駅付近の相場からするとかなり格安の家賃で借りられている。
リビング以外に部屋が二つあり、ひとつは二人の寝室、ひとつはこうしてクロムの書斎として使っている。
彼は最初、一室をまるまる自分だけで占拠することに難色を示していたのだが、ルフレはちゃぶ台で勉強することに慣れていたからリビングのソファで日々の勉強をするのはちっとも構わないし、研修が終わればルフレと同じ学園に教師として赴任することが決まっているのだから、生徒である自分が見ない方がいいものもあるだろう。
その辺りを二人で話し合って、今のような部屋の割り振りになった。
部屋に入った時にちらりと見えたが、机の上には綺麗な字でびっしり書き込みがされたテキストや、研修用の教材らしい資料が広げてあった。
学期の途中からの採用になるので、少し変則的な研修内容になっているらしく大変そうなのに、クロムはむしろ早く生徒たちに教えたいとはりきっている。
「もうすぐ学校でもクロムさんに会えるんですね。あ、でも学園だと『クロム先生』、でしょうか……?」
「まあ、そういう呼び方になるだろうが……家ではやめてくれよ?」
「はい? ええっと、呼ぶのはもちろん学園だけだと思いますけど……。私に『先生』って呼ばれるの、嫌ですか?」
「嫌というか、な。自分の奥さんに『先生』なんて呼ばれたら――――」
そこでいきなり顔が近くなったと思ったら、不意打ちのように鼻先にキスをされた。
びっくりして、コーヒーの載ったトレイを落としそうになったルフレを支えながら、クロムが耳元で囁く。
「――――こういうことがし辛い」
笑みを含んだ声。
からかわれたのだと気付いて、意地悪な旦那様を軽く睨んでみるがどこ吹く風で、少しも堪えた様子がない。
子供の頃、妹のリズにしょっちゅう悪戯を仕掛けられて困ったんだ、なんて、さも自分だけが被害者であるかのようにこぼしていたけれど、クロムにも同じ血が流れていることをこういう時に実感する。
「もうっ! コーヒー、冷めちゃいますから早く飲んでくださいっ」
「ははっ、悪い悪い」
トレイをクロムに押し付けて、ルフレは床に敷かれたふわふわのラグに腰を下ろした。
怒っています! というのをアピールするためにツン、と顔を背けていたものの、向かい合う形で腰を下ろし、湯気が立つコーヒーを一口啜ったクロムが小さく「美味い」と呟いたので、思わず口元が緩んでしまった。
彼はお世辞を言わない人だ。というより、無理に褒めようとしても口調や態度がぎこちなくなるので、お世辞を言えない、という方が正しい。
だから彼が美味しいと言ったら、それは本当にそう思ってくれたからなのだ。
旦那様好みのコーヒーを淹れられる。それは本当に小さなことだけれど、ちょっぴり彼の『奥さん』らしいことができた気がして嬉しい。
機嫌を少し直して、自分の分のマグカップを手に取った。
「……ん? ルフレ、お前はコーヒーだと眠れなくなるんじゃないか?」
「だ、大丈夫です。私もこれから、少し予習と復習をしたいので……」
「それにしても、いつものカフェオレじゃないだろう。飲めるのか?」
「飲めますよっ」
子供扱いしないで欲しい。せっかく機嫌が直りかけていたのに、また急降下だ。もう一度ぷう、と頬を膨らませて睨めば、「フグみたいだな」とつつかれる。
厳重に抗議したかったが、笑ったクロムの顔が蕩けそうなくらい優しかったので、言葉がそれ以上出てこなかった。
誤魔化すように一気に黒い液体を呷る。口の中に広がった大人の味に思わず顔を顰めそうになり、これはコーヒーが熱かった所為だと心の中で言い訳をした。
「無理はしなくていいんだぞ? 砂糖持ってくるか?」
「大丈夫ですってば!」
少しからかうような笑みを含んだ口調に、ついムキになって反論してしまう。……こういう態度だから、彼はいつまでもルフレのことを大人扱いしてくれないのだろうか。
脳裏を過ぎった思考は、無理矢理呑み干したコーヒーよりずっと苦かった。
***
クロムは、とても優しい。
付き合うようになってからは、ちょっぴり意地悪な時もあると知ったけれど。でもルフレのことを、まるでお姫様のように――これはリズが、あれこれルフレの世話を焼くクロムをからかって言ったことだ――大切にしてくれる。
女手一つで娘を育てるために働き詰めの母を見て育った所為で、相手の都合ばかり考えて自分の希望を素直に口に出せないルフレをうんと甘やかして、ずっと守ってくれている。
もちろん、危ないことをしようとすれば叱られたし、クロムの為にと一度は受け入れたプロポーズを断ろうとしたら、本気で怒られた。
ただ、それ以外のクロムはルフレに対して、とてもとても優しい。
おはようやおやすみのキスも、いってらっしゃいやただいまの抱擁も、一度だって乱暴にされたことがない。
いつだって包み込むように優しくて暖かくて……でも、それだけだ。
まるで庇護している存在を慈しむような、穏やかな愛情。ルフレを『女』として求める熱があるとは思えないくらいの。
だから彼と結婚できて、背中に羽が生えて空も飛べそうなくらい幸せなのに、時々不安になる。
クロムは、ルフレに対して好意を持ってくれている。
彼は嘘が付けない人だから、それは信じている。けれど。結婚してくれたのは――――もしかしたら。
母を亡くして、ひとりぼっちになってしまうルフレを可哀想に思ったからではないだろうか、と。
***
それから少しだけ他愛ない話をした後、名残惜しかったがクロムの邪魔をしないように部屋を出た。
リビングでざっと予習復習を済ませ、先にお風呂に入らせてもらって「おやすみなさい」と一声掛けてから寝室へ行く。
いつもならすぐ眠気が襲ってくるのだけれど、今日は夕食後にカフェインを摂取したから計画通り、目は冴えている。
そう、今日わざわざ遅くにコーヒーを飲んだのは、クロムに対して説明したような理由ではなく、彼が寝室に来るまで起きているためだった。
(クロムさん、いつも私が眠ってからベッドに入っているみたいですし……。今日こそはちゃんと起きていたいです……)
寝室として使っている室内には、シングルサイズのベッドを二台、ぴったりくっつけて並べている。
母と二人、畳の上に敷布団を敷いて寝ていた頃より断然寝心地は良い。
けれどルフレがもやもやしてしまうのは、クロムとまだ夫婦らしい行為をしたことがないからだ。
このアパートで暮らし始めた最初の夜こそ二人で一緒にベッドに入ったものの、彼はいわゆる初夜に緊張で体を強張らせるルフレに『おやすみ』と優しくキスをして、一晩中抱き締めてくれただけだった。
その翌日からは先に休んでいてくれと言われることが多く、ルフレも起きていようと思うのに、新しい学園での生活と、新居での生活、どちらもまだ精神的に慣れていないからか、すぐ眠ってしまう。
朝目が覚めると、無意識にかクロムに縋るようにしているルフレを、彼が抱き締めてくれているから、きちんとベッドに入って睡眠は取っているのだろう。
でも、一向にクロムがそういう意味で触れてくれないことは、大好きな人と家族になれて、幸せいっぱいなはずの心に暗雲をもたらしていた。
「……っ!」
色々なことを考え過ぎて気もそぞろだったルフレの耳に、ぎぃ、と微かにベッドが軋む音が届く。
クロムだ。既に眠っていると思っているルフレを起こさないようにだろう、静かに静かに隣に滑り込んだ温もりに、心臓がどきどきと苦しいくらいに高鳴る。
冷え性気味のルフレと違って、彼はとても温かい。その温かな掌で隅々まで触れて欲しいと望むのは、はしたないことだろうか。
けれど結婚したのだから、おかしくなんてないはず。無理矢理そう結論付けて、クロムの寝間着の布地をぎゅっと握った。少しだけ、彼が息を呑む気配がする。
「……悪い。起こしたか?」
「いいえ……違うんです。その、えっと……眠れなくて」
気恥ずかしくて俯いたままぼそぼそと言い訳すると、言わんこっちゃないとばかりに呆れた声で返された。
「だから言っただろう? コーヒーをあんな時間に飲んだら眠れなくなるって」
「ごめんなさい……。でも、あの……クロムさんが『おまじない』してくれたら、眠れると思うんです。だから……」
『おまじない』は、付き合っていた頃、夢見が悪くて夜によく眠れない、と話したルフレに、クロムが別れ際にしてくれたキスのことだ。
直接キスをねだるのはまだ恥ずかしくても、『おまじない』と言い換えれば、どうにかクロムにキスして欲しいと婉曲的に伝えられた。
ただ今は、キス以上のこともして欲しくて、でも経験がないルフレはどうしたらいいか分からなくて、悩んだ結果の精一杯の『お誘い』だった。
深夜に近い寝室内は、明かりも付けていないから随分暗い。見上げたクロムの表情は至近距離でもよく認識できなくて、不安になる。
心臓が破裂しそうだった。多分、本当はごく短い時間だったのだろうけれど、ひどく長く感じた沈黙の後――――そっと、大きな手がルフレの頬を包み込んだ。
期待に目を閉じたルフレの唇に、柔らかい、けれどルフレのそれとは違う少し引き締まった感触のものが重ねられる。
「っん……」
何回しても、クロムとのキスは慣れない。どきどきして、触れ合ったところがとても熱くて火傷しそうで、でも止めてほしくなくて更に強く、彼の寝間着の布地を握る。
なのに軽く啄むように触れた唇は、呆気なく離れてしまう。ルフレが求めている『その先』に進むことなく。
「……これで眠れそうか?」
囁く声はとても優しかったけれど、いつものようにルフレを安心させてはくれなかった。欲しかったのは触れるだけの優しいキスじゃない。
涙が滲みそうで、でも泣いてしまったら本当に子供みたいで、必死に堪えた。
辛うじて返事をして、彼の胸元に顔を埋める。寝間着からは一緒に選んだ柔軟剤のにおいがして、前はそれだけで幸せだったのに、今はひどく苦しい。
するとまだ寝付けないでいると思われたのか、子供をあやすように背中を撫でられて、ますます悲しくなる。
それから朝まで、結局クロムはルフレに何もしてくれなかった。
*
翌朝、まったく安眠できなかったルフレが、眠い目をこすりながら朝食とお弁当の準備をしていると、身支度を終えたクロムが「手伝うぞ」とシャツの袖を腕まくりして隣に並んだ。
起床直後、おはようと挨拶をした時も今も彼はいつも通りで、感情を揺らしているのは自分だけなのだと思うと、外は雲ひとつないいいお天気なのに憂鬱だった。
ただ心配を掛けるのは本意ではないので、努めてルフレも普段と同じように振る舞う。
クロムの料理の腕は壊滅的だから(ただ、キャンプ料理は得意らしい。育ちがいい人なのに不思議だ)、盛り付けや配膳をお願いすることにしている。朝食は白いご飯にキャベツと溶き卵のお味噌汁、昨夜の残り物の煮物と焼き魚だ。
ルフレが作り慣れているのが和食なので、つい馴染みのある献立にしてしまうのだけれど、クロムは一度も不満を口にしたことがない。
むしろ毎回幸せそうに食べてくれるから、もっと彼が好きな料理を色々作れるようになって喜んで欲しいと思うのに、青臭い野菜が少し苦手ということくらいしか未だに分からなくて、ちょっと悔しい。
そんなことを他愛もない話をしながらつらつら考えていると、クロムがああ、と思い出したように口を開いた。
「前にも話したと思うが、今日はガイアたちと飲んでくるから、いつもより遅くなる。悪いが待たないで先に寝ていてくれ」
「ふふ、謝らないでください。ガイアさんたちと会うのも久しぶりでしょう? 楽しんできてくださいね。あ……でも、明日のお休みは一緒に出掛けられますか?」
「もちろん。エリスさんの月命日だろう? 一緒に墓参りに行こう」
すっ、と伸ばされた大きな掌がルフレの頬を撫でる。お揃いの指輪が填まった左手。優しい声と温もりがじんわり染み渡っていくようで、それを味わうようにゆっくり目を閉じる。
クロムは、ルフレのことを本当に、本当に大事にしてくれている。
だから今以上のことを望んだら罰が当たる。そう思って自分を納得させようとするけれど、初恋を叶えてもらったルフレの中の少女は我儘で、もっと愛して欲しい、本当の意味で彼の妻になりたいとみっともなく喚いていて、耳を塞ぎたくなった。
「……ルフレ?」
「あっ……な、何でもないです。それよりクロムさん、早く行かないと電車の時間に間に合わなくなっちゃいますよ」
「ん? ああ、もうそんな時間か。いつも片付けまで任せて悪いな」
「気にしないでください。その分、休日はたくさん手伝ってくださるじゃないですか。はい、今日の分のお弁当です」
誤魔化すために少し早口で促せば、クロムはそれ以上追求しないでくれた。
何でもないように精一杯微笑んで、心を込めて作ったお弁当を手渡すと、少し照れたようにお礼を言ってくれるのが好きだ。
その後、玄関まで見送りに出たルフレに「行ってくる」と笑ってこめかみにキスしてくれるのも。
大好きの気持ちで胸がいっぱいになって、でも最近はそれだけではなく、とても苦しい。
どうして、結婚したのにキス以上のことは何もしてくれないのだろう……。
クロムを送り出した後、自分も学園に登校したルフレだったが、その日は好きな授業もずっと上の空で、友人やクラスメイトに随分心配されてしまった。
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