それから準備していたフレンチトーストをクロムの分までやけ食いしたルフレは、黙々と身支度を整えて母が眠る墓地へ向かった。
墓地は、ルフレの住むアパートから電車とバスを乗り継いで1時間ほどの場所にある。
市の中心部からは離れているが、近くにあるステンドグラスとオルガンが有名な教会がちょっとした観光スポットになっていて、周辺にお洒落なカフェやパン屋、ガラス工房なども点在しているので、散策している人をちらほら見かける。
ただそこまで混雑しているわけではなく、静かな場所で読書をするのを好んでいた母にぴったりの場所だった。
「……母さま、一ヶ月ぶりですね。本当はもっと会いに来たいんですけど、学業を疎かにするんじゃありません、って叱られそうだから私ちゃんと我慢したんですよ、偉いでしょう?」
軽く掃除を済ませた後、墓前に白いカーネーションを供えたルフレはしゃがみ込んで手を合わせ、母に語り掛ける。
生前、母はどんなに仕事が忙しくても、必ずその日あったことをルフレに話させて、時折質問を挟みながら楽しそうに聞いてくれた。
その頃のように、学園の授業のことや友人たちのこと、アパートの近所で見かける猫が可愛いこと、オムレツが上手く作れたこと、とにかく取り止めなく話し続ける。
はしゃいだ口調が、静かな墓地の中にどこか空々しく響いた。
前回は結婚の報告のために訪れて、次に来る時、ルフレが幸せな新婚生活を送っていると報告すれば母は喜んでくれるだろうと、クロムと一緒に笑い合ったのだった。
それなのに今日、ルフレはひとりきりで。ここに来てからクロムのことに一言も触れていない。……その不自然さを、母はどう思うだろう。
何でもないように振る舞って、ひたすら明るく喋り続けていたルフレは、とうとう言葉が出てこなくなってしまった。
「…………母さま、私……どうしたらいいか、分からなくなっちゃいました」
長い時間黙り込んでいたルフレは、やっとのことでそれだけ口にすると、墓前でしゃがんだ状態で顔を伏せる。
クロムにプロポーズされて、夢を見ているようだと思った。
母が亡くなって、ひとりぼっちになってしまったルフレに、彼はまた家族の温もりをくれると言ってくれて。
財産家の娘でもなく、名家の生まれでもなく、何の資産も有力な繋がりも与えられないルフレとの結婚は認められない、クロムの将来を考えるようにと彼の父から直接諭され、一度は指輪を返そうとしたけれど。
生半可な覚悟でプロポーズしたわけじゃない、たとえ勘当されて家を出ることになっても気持ちは変わらないと切々と訴えられた。
いつも一番近くにいられる権利が欲しい、ルフレの家族になってささやかな日常を一緒に積み重ねていくのが新しい夢だと言われ、ルフレは泣いてしまった。
大好きなひとにそこまで言われて拒み通せるほど、ルフレは強くなかった。
ルフレだって、彼とずっと一緒にいたかったから。
(でも……私の『好き』とクロムさんの『好き』は、違ったのかもしれません……)
結婚は、ルフレにとって大好きなひとと一生一緒にいられる約束、というだけではない。
いつか二人の子どもを、新しい家族を持つことを前提にしていた。要するに、子どもができるような行為をクロムとする心づもりがあった訳である。
もちろん当面は学生だから、すぐ妊娠するつもりはなかったけれど、好きなひととひとつ屋根の下で暮らすのだから、キス以上の甘い触れ合いをしたいと望むのは、何もおかしなことではない……と思う。
ただ、クロムにとっては。
ルフレを大事にして、優しく甘やかしてくれても、それは親鳥が大きな羽根で雛を包むような、庇護すべき対象に向ける穏やかな愛情で。
彼と釣り合う大人の綺麗な女性と一緒にクロムが歩いているのを見かけた時にルフレの胸の奥に沸き起こった、苦しいような、どろどろとして目を背けたいのにそうさせてくれない、自分で自分の感情が制御できなくなるほど強い想いと同じではなかったのかもしれない。
クロムにとっての結婚は、誰にはばかることなく好意を持った相手の側にいて、その相手を守る大義名分を得るための手段であり、それ以上でもそれ以下でもないのか。
……こんなぐちゃぐちゃな感情を抱えたまま、何事もなかったかのようにクロムと一緒に暮らせるだろうか。
(母さま……私、大好きなクロムさんと結婚できたのに、最近とても苦しいんです。幸せなのは本当で、前よりももっとクロムさんが好きになっているのも本当なのに……結婚って、こんなに苦しいものなんですか? だから母さまは、父さまと籍を入れずに、私をひとりで育ててくれたの……?)
母は、幼いルフレが父親について尋ねても、亡くなったわけではないということ以外、あまり詳しくは教えてくれなかった。
働き詰めでいつも顔色が悪かった、人の気持ちを察するのが苦手で敵を作りやすかった、女性の扱いも下手で、なのにやたらと玄人女——幼いルフレの手前、母は口にする言葉に気を遣っていたが、時々お酒に酔うとぽろっとそういう単語が飛び出した——にはモテたのが気に食わない等々、どこの誰なのかを聞きたかったのに、どんどん話がずれて、最後には全部父の悪口になってしまうのだ。
かと言って、嫌い合って別れたわけではないらしく、ルフレのちょっとした仕草が父に似ていると目を細める母の表情には、もう逢えないと語った父への深い愛情が滲んでいた。
そもそも、頼れる親類が誰もいない母が未婚でルフレを産んだ理由だって、父の子どもを産みたかったから、らしいので、父を愛していなかったはずがないのだ。
なのに、母は父と結婚しなかった。両親が同意の上でしなかったのか、それとも何か理由があってできなかったのかは分からないが、愛したひととの関係が、法的に保障される結婚という手段を選ばなかった母は、どんな気持ちだったのだろう。
会いたい、と切実に思った。
会って、母に聞きたいこと、話したいことがたくさんあった。
「母さま……どうして、私を置いていなくなっちゃったんですか……?」
昨夜、身体中の水分が流れてしまったのではないかというくらい泣いたはずなのに、つ、とまたルフレの頬を涙が伝う。
幸い、墓地の中はルフレ以外人気がなく静かだった。緑の生い茂る木々の間を、風が吹き抜けていく音が時折するくらいで、辺りは静まり返っている。
とは言え、もし誰かがここを通りかかって、しゃがみ込んで動かないルフレを見たら、具合が悪いのかと心配されてしまうだろう。
いつまでもめそめそしていないで早く泣き止まないと、とは思うものの、なかなか気持ちが切り替えられない。
ルフレの心は、まだ母の死から立ち直れていなかった。
何しろ、母のエリスが亡くなって一年も経っていない。これまではクロムと家族になれた喜びで満たされていたから、母を喪った悲しみがあまり表面化していなかっただけなのだ。
結婚一日目の夜から少しずつ大きくなっていった、クロムから女として求められていないのでは、という不安が現実化した昨夜の出来事。
それが、初めて二人だけで出かけた夏祭りで食べた綿菓子のように甘くふわふわしていた結婚への期待や、大好きなひとと家族になれた喜びをしぼませた。
その隙間から、今まで隠れていた悲しみが一気に噴出した形だった。
涙を止めようと、いくら努力しても効果はない。むしろ泣き止もうとする行為さえ涙腺を刺激するようで、ルフレはいつの間にかしゃくり上げるようにしてより強く泣き始めていた。
「…………お嬢さん、大丈夫かね?」
ルフレが言うことを聞かない涙腺と格闘していると、いきなり背後から低い声が聞こえた。
誰もいないだろうと油断していたので、慌てて服の袖で涙を拭い、立ち上がって振り返ったそこには、痩身の中年男性が白い花束を抱えて佇んでいる。
こんなに暖かな陽気なのに、喪服のような黒いスーツをきっちり着込んだ男性は、かなり顔色が悪かった。
むしろあなたの方が病院に行くべきではと、泣きじゃくってまた目が赤くなったルフレと比べれば十人が十人思うような様子である。
花束を持っているということは、この人もやはり誰かの墓参りなのだろう。その途中で泣くルフレを見かけ、声を掛けてくれたようだ。
表情に乏しいし、顔色が悪いので一見冷たくて怖い印象を受けるけれど、悪い人ではなさそうだと感じた。
「す、すみません……っ、お見苦しいところをお見せしてしまって……!」
「い、いや……すまぬ、私こそ不躾だと思ったのだが……――――ッ?!」
勢いよく頭を下げたルフレは、ずっとしゃがんで組んだ腕に顔を押し付けていた所為で、ぐしゃぐしゃになった前髪や、スカートをもう一度手早く直し、男性に向き直った。
声を掛けたのはいいものの、泣いていた若い娘にどう対応したものか困惑しているのか、どことなく腰が引けているようだった男性はしかし、顔を上げたルフレを見て驚愕の面持ちで硬直した。
「…………エリス……?」
「え……?」
思わず、というように男性の唇から微かに漏れた囁き。
それを耳にして、ルフレも状況を忘れ、まじまじと目の前に立つ人物を見つめる。
男性が口にしたのは間違いなく、亡くなったルフレの母の名前だった――――。
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