無意識の内にごくり、と唾を飲み込んだ音がやけに大きく響く。そのことがやたらと気まずく感じられ、身じろぎしかけると触れるか触れないか、ちょうどぎりぎりの距離を保っていた互いの指先が重なりあい、ルフレは思わず勢い良く手を引っ込めてしまった。
「……す、すみませんっ」
「い、いや……その、俺こそすまん」
自分のものと同じくらい強張ったクロムの声が耳朶を震わす。手が触れたからといって何も謝る必要がある間柄ではないのだけれど、他に口にすべきことが思い付かなかったのだ。
室内の光源は豪奢な寝台の脇に置かれた手燭しかなく、辺りは薄暗い。火照った顔を見られずに済む反面、ほんの些細な接触ですら今のように意識しすぎてしまい、ルフレは自分の心音が隣に腰掛けた夫に聞こえてしまわないか、気が気でなかった。
(夫……! そ、そうですよね、もう今日から私はクロムさんの奥さんで……)
もっとも、彼女の立場は今やこのイーリスの聖王妃であり、『奥さん』という可愛らしい響きから連想されるふわふわとした甘い時間ばかりが許される訳ではないのだが。
それでも二人は、手を握るどころかそれ以上の行為までして当然、という関係に今日を境になっている。しかし宴から下がり、床入りの支度をしてクロムを迎えたのは随分前だというのに、イーリスで最も高貴な夫婦の為の寝台に並んで腰掛けたまま、もう小一時間が経過しようとしていた。
クロムと目を合わせる勇気がなく、視線を俯けて真っ白な夜着の布地を握り締める。心臓が飛び出してきてしまうのではないかと思うほど、どくどくと高鳴る鼓動が先刻からずっと止まらない。
(どどどど、どうしましょう……?!)
ルフレとクロムが直面しているのはいわゆる新婚初夜というやつで、求められていることは当然クロムとの共寝だ。当たり前のことなのに、婚約者としての正式なお披露目から今日の婚礼まで、挨拶回りやら王妃教育やらで慌ただしかったために、改まって考える時間が取れなかった。
心構えなど当然できていない。クロムもそれは同じようで、時折こちらをちらちらと盗み見ている気配はあるものの、あー、だのうー、だの、意味を成さない唸り声を上げるばかりだ。
出逢ってからしばらくは夜通し行軍について話し合い、議論が白熱するあまりそのまま同じ天幕の中で一晩を明かすことも数多くあったというのに。
それが今では、指先を触れさせるという、僅かな接触すら気恥ずかしくてできないでいる。
(こ、こんなことではその、駄目……ですよね。これから毎晩こうしている訳にもいきませんし、おつとめはきちんとしなくて、は……)
けれどそう思って踏ん切りをつけようとすると、途端に以前まともに視界へ収めてしまった彼の逞しい裸体が浮かんできてしまう。それとともに、今夜床入りの支度をしている間に聞かされた夫婦の営みのことも。
はしたない想像だと思うのに、これまでのように衣服越しではなくクロムの優しい腕で直接抱き締めてもらうことを思い浮かべて。より一層熱くなった頬を誤魔化すように、ふるふるとルフレは頭を振った。
びくり、と隣でクロムが驚くのが分かる。確かに、挙動不審だ。花嫁がいきなり頭を振り始めたら何事かと思うだろう。
……ならば挙動不審ついでに、当たって砕けてみよう。そんな結論に至ったルフレの思考は、やはり混乱の極みにあったと言わざるを得ない。
「……えいっ!」
新妻の行動に驚愕して固まりかけたクロムに、体当たりを仕掛ける勢いでルフレは抱きついた。その、つもりだったのだが。
「うおっ?!」
いかに鍛えていても所詮は女。平時であればまったく動じないであろう華奢な彼女に体重を掛けられ、クロムの身体はどさりと寝台に沈み込んだ。それに釣られるようにしてルフレも同様に、彼の上へ倒れ込む。
傍から見ればつまり、ルフレがクロムを押し倒しているという状況で。
激しく打ち鳴らされている鼓動の音は、果たしてどちらのものなのか。
(えっと、えーっと……こ、これからどうしましょう??)
自分が、狼の住処に何の備えもなく無防備に顔を出した、兎の如き行動をしたのだと彼女が悟るのは、この数瞬後のことである。
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