ああ気に入らないな、悪いか

 軍内はヴァルムへの出航準備で慌ただしい。エメリナ女王の代になって、正規軍が手薄になってしまったイーリスはそもそも海軍など持ちようがないし、フェリアも陸戦は強いが海戦というと経験が少ない。万全の備えをしたいと思っても、不慣れな者ばかりでは細かい作業ひとつとっても時間が掛かる。
 しかし苦心する周囲をよそに、港町を気怠げに歩く男がひとり。
「ったく……ティアモのやつ、俺を使いっ走りに使うなっての」
 ぶつぶつと不平をこぼす長身の男――ガイアは、手に持った書類をぴんと立てた指先でくるくると器用に回しながらとある場所を目指していた。
 体力仕事は気が進まず、姿をくらまして適当に港町の市場を冷やかそうかと考えていた矢先、まるでこちらの思考などお見通しと言わんばかりに現れたティアモ。通りを歩いたなら、十人に十人ともが「美人だ」と声を揃えて言うであろう、整った相貌に青筋を立てた彼女に「暇ですね? 暇ですよねガイアさん。え? 忙しい? どの口がそんなこと言うんですか。あたしのペガサスに蹴られたくなきゃ、さっさとこれをクロム様のところへ持って行って差し上げて下さい!」と書類を押し付けられたのだった。

(まったくあいつも……何でもかんでも引き受けやがって。もう少し楽することを覚えりゃいいのに)

 ひと通りのことは器用にこなしてしまうために、人からとかく頼られがちな彼女の不器用さは好ましいが、未知の大陸へ旅立つというのに体調を崩されてはたまらない。書類をクロムに渡したら、少し手伝ってやるか――そう思いながら、軍主がいるであろう町長の屋敷に歩みを進める。
 この町に来る前、不思議な遺跡で、この時代では未だ生まれてすらいない『息子』と出会った彼は、結婚してからもう二年も経ち、長子まで誕生しているというのに、どこの付き合い始めの恋人同士だと呆れたくなるほどの熱愛ぶりを周囲へ見せつける妻との間に、ここ数日軍務を離れると非常に甘酸っぱい空気を醸し出していて、迷惑なことこの上ない。

(こちとらまだ独り身だっつーの!)

 そう毒づきながらやや八つ当たり気味に、勢い良く軍主に割り当てられた部屋の扉を開いたガイアだったが、すぐクロムのただごとでない様子を見て傍らまで駆け寄る。
「お、おいクロムどうした?」
「ああ……ガイアか」
 部屋のほぼ中央に置かれた大きな卓の前、椅子に腰掛けたクロムは視線をちらりと投げて寄越し、またすぐに卓上へ戻して俯いてしまう。表情も声も覇気がない。むしろ、この世の終わりでも来たのかというほど暗い。
「何か……悪い知らせでもあったのか?」
 この部屋を訪ねた当初の目的も一旦脇に押しのけ、まずは重い重い溜息をつくクロムの、その原因を確かめようと尋ねると、彼は下を向いたままぽつりと呟く。
「……今夜、な……」
「あ、ああ」
 ガイアはごくり、と唾を飲み込んだ。
 今夜何があるのか。敵襲でもあると斥候から報告があったのか。それなら大変だ、早くティアモにも、皆にも知らせてやらなくては――――――。

「……今夜、マークがルフレと一緒に寝るらしい」

 

 沈黙。

 

 さらに沈黙。

 

「うおっ?!」
 優に、町長の屋敷の周囲を一周してまたこの部屋まで戻って来れるほどの長い時間、故国
イーリスで至尊の地位にある筈の聖王代理にして、イーリス・フェリア連合軍の最高責任者たる男の発言内容を脳内で精細に吟味していたガイアは、その内容を理解するや否や無言で、黄昏れているクロムが座す椅子を思い切り引き抜いた。
 ……当然、そこへ全体重を預けていた聖王代理は支える物を失い、がたがたん! と鈍い音を立てて尻餅をつく。ここまで見事な尻餅のつきかたもそうあるまい、と少しは気が晴れたガイアだった。
「なっ……! ガイア、いきなり何なんだお前は! 驚くだろう!」
「何なんだは俺の台詞だこのど阿呆! やたらと真剣な顔して悩んでるから何か問題でも起きたのかと思えば、お前の嫁と子どもの話かよ?! 一緒に寝るぅ? 仲が良くて結構だな!」
「結構じゃない! 俺はしばらくルフレと寝てないんだ! だというのにマークときたら、俺を差し置いて『知らない人ばかりで不安なので母さんと一緒に寝たいです』ときた!! しかもルフレのやつ、俺には断ったくせにマークにはあっさり『いいですよ』などと……!!!」
 床に尻餅をついたまま、涙目でわなわなと震えつつ訴えるクロム。ここまでくると、威厳も何もあったものではない。こと最愛の妻にして半身、と彼自身が公言して憚らないルフレのことになると、普段のカリスマ性も堂々たる態度もどこかへ吹っ飛んでしまう。
 なるほど、いかに夫婦といえど、同じ天幕を使うのはとルフレの方で気を使ったところ、一方でマークには同じ天幕で休むことを許したのが気に食わないらしい。だが……。
「……マークはお前の息子だろ? 息子が母親と一緒に寝るのも気に入らないのか?」
「ああ、気に入らないな。悪いか!」
「悪いか、ってお前な……」
 深く深く嘆息して、ガイアは頭を抱えた。
 お前は駄々っ子かと怒鳴りつけてやりたいが、もうそんな気力もない。自分も結婚すればこの男のようになってしまうのだろうか。それだけは絶対に嫌だ。
 そう思いながら、誰か入ってきでもしたら大変だと、最後に残った憐れみで自分達の軍主をもう一度椅子に座らせてやったガイアだった……。

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