イーリス聖王国の聖王代理であり、イーリス・フェリア連合軍の軍主でもあるクロムの誕生日が間近に迫っていた。
現在、連合軍は圧倒的な兵力で押し攻めてくるヴァルム帝国軍に対抗するため、ペレジアより借り受けた船でヴァルム大陸へ出航する準備中である。
悠長に祝っている時間はない。それは連合軍の軍師として同行するルフレとて分かっていたが、そんなときだからこそ祝福したいという気持ちも強かった。
フェリアの港に上陸した帝国兵の強さは恐ろしいほどだった。勿論、軍事大国として名高いフェリアの兵士とて強い。
だが物量が違うのだ。一人、兵士を打ち倒したとしても何にもならない。将校から一兵卒に至るまで、いっそ異常ともいえるほど統率のとれた動きで攻め込まれ、町の住人を守りながらの戦いであったこともあり、ルフレは何度も肝を冷やした。
その無尽蔵の兵力を誇る帝国が支配する地への進軍は、皆恐れこそしないだろうが、精神的に負担だろう。
兵たちにとっても、軍主のクロムにとっても。
ならばささやかな宴を開くことで、少しでも安らいだ心地になって欲しい。あまり大袈裟にしなければ、出航の用意に差し障りもないだろう。
そう決めて、ルフレは軍内で協力を頼めそうな人間に声を掛けていった。
宴に必要な品々は各地に顔が利くアンナに、適正価格でお願いしますね、ときっちり念を押して。
細かな段取りや当日の準備といったことは、ソールやソワレをはじめとした自警団時代からクロムと過ごしてきた面々に。
そして肝心の料理だが、これがなかなかの難題だった。これまでの行軍で供された食事を思い返しても、安心して頼めそうなのは何でもそつなくこなすティアモくらいしか思い浮かばない。
食事当番でそれなりの料理を作る人間はいるのだが、皆大人数の料理を一度に作るのは向かないのだ。……ちなみに、ルフレ自身は真っ先に除外した。晩餐会で供されるような素晴らしい味になることもあれば、逆に同じ手順で作ってどうしてここまで、というくらいまずいものになることもあって、大切なクロムの誕生日を祝うにあたって、そんな不確実な真似はできなかった。
流石にティアモ一人に押し付けるのはと躊躇っていると、意外なところから救世主が現れた。
フェリア港での戦いから従軍している竜騎士のセルジュは、何と家事全般をこなすのが得意であるらしい。勿論、料理もお手のものだという。
上空から愛竜と共に縦横無尽に援護をしてくれた頼もしい戦いぶりからは想像もつかないが、これで一安心だった。作るものや味付けは二人に決めてもらい、材料を切ったりする準備段階は他の人間も手伝えば大人数の分でも間に合うだろう。
ほんのささやかなものだが、やはりこれだけの大人数が参加する宴となると手間もかかる。細々としたところまですべて手配し終わった時にはルフレはぐったりとしていたが、同時にとても充足していた。
***
そして、当日。
クロム本人には秘密にしていたので、誕生日を祝うための宴だと告げるとはじめは驚かれたが、すぐに照れくさそうな笑顔を見せてくれた。
宴が始まると、今日の主役だけあってクロムの周囲にはあっという間に人が集まった。少し離れたところでルフレも微笑を口元に浮かべながらその光景を眺めていたのだが、幾人かが綺麗に包装された品物を渡す段階になって、笑顔が盛大に固まった。
クロムに気付かれぬようにこっそりと、人気がほとんどなくなってからは早足で自分の天幕に駆け戻る。
「……ど、どうしましょう……」
ひとりごちてルフレは頭を抱えた。
宴の準備は完璧だった。皆が皆、クロムの為と張り切ってくれて、主役のクロムもとても喜んでくれた。だが。
「クロムさんへの贈り物……何も用意していません……!」
クロムとルフレは、軍主と軍師という関係ではあったが、同時に夫婦でもあった。乳母とともに城に残して来てしまったが、二人の間には娘の<ルキナ>も生まれたばかりだ。
それなのに。
誰より大切なひとが生まれた日の祝いに、妻の自分が贈り物を用意していないなんて!
とんだ大失態である。
今更用意するのは不可能だった。宴というだけあって今はとっぷりと日が暮れてしまっている。一番近い港町まで行ったとしても、この時間ではどこも店仕舞いしてしまっただろう。
「母さん、母さん!」
「マーク! 女性の天幕にいきなり入るのは失礼ですよっ」
途方に暮れるルフレが簡易寝台の上に突っ伏していると、勢い良く天幕の入り口に垂らしている布がめくり上げられた。
賑やかに入ってきたのはルキナとマークの姉弟。
城にいる娘と同じ名前のルキナは、生まれたばかりの赤ん坊ではなくルフレとほとんど同じくらいの年格好をしている。
マークもルキナより少し年少に見えるが、背丈はあってルフレよりも長身だ。
何も知らない人間が見れば、自分とそう年齢の変わらない女性を『母さん』と呼ぶことに首を捻って不思議がるだろう。
だが二人とも、未来から来たというクロムとルフレの子供なのだ。
その姉弟は、力なく寝台に顔を伏せたままのルフレを認めるやいなや、顔色を変えて慌てて駆け寄ってきた。
「お母様?! どうされたんです、ご気分でも悪いのですか?!」
「何か悪いものでも食べたの母さん?!」
今にも軍医を呼びに行きかねない剣幕だったので、ルフレは急いで身を起こした。
「だ、大丈夫ですよ、二人とも。ちょっと……その、自分の情けなさに落ち込んでいただけですから」
そういえば、二人はクロムに何か贈ったのだろうか。まさか自分のように忘れることはないだろう。
ルキナは自分の正体を明かしてから「お父様を尊敬しています!」と公言して憚らないし、マークはマークで、母親であるルフレのこと以外覚えていないというが、クロムにも剣の稽古をねだるなどして懐いている。
きっと、心のこもったものを贈ったに違いない。
(すっかり忘れてしまっていたのなんて、私くらいですよね……)
再びずぶずぶと暗い思考の渦に嵌り込んでいく母に、ルキナもマークも心配でならないという表情を隠せないでいる。
「母さん、本当に大丈夫?」
「落ち込まれるようなことが何かあったのですか?」
ただただ純粋にこちらを案じてくれている子供たちに泣きたくなった。こんなに不甲斐ない母親では、がっかりされてしまうかもしれない。
だがこのまま事情を話さないわけにもいかなかったので、おずおずと口を開く。
「実は……その、クロムさんへの誕生日の贈り物を用意するのを、忘れてしまったんです……」
「それで天幕に戻っていらっしゃったんですか? お母様のお姿が見えないので、お父様が探されてましたよ」
「うっ……。だ、だって合わせる顔がないじゃありませんか……!」
「大丈夫ですよ、母さん! はい、これ」
とうとう涙目になったルフレに、マークが満面の笑みで差し出したのは薄桃色のリボン。髪を結ったりするような可愛らしいものだ。まさかこれをクロムに贈れというのだろうか?
我が子の意図するところが分からずルフレが目を瞬かせていると、マークはルフレの左手首にくるくると器用にそのリボンを結び付けた。
「マーク?」
ルキナも突然の弟の行動に不思議そうな顔をしている。
「これでよし、と。何も特別なものなんて用意する必要ないですよ。贈り物なら母さんでいいじゃないですか」
「「ええっ?!」」
母子の驚きの声が綺麗に重なった。
「確か僕がこの前読んだ本に、『お帰りなさいあなた。ご飯にします、お風呂にします? それともわ・た・し?』なんてのもありましたし、この状態で父さんの天幕で待ってれば他の贈り物なんて目じゃな、」
「ままままままーく?!」
「っな、何て本を読んでるんですかあなたはーーーーっ!!」
マークの意図するところをようやく理解して。
ルフレは盛大に顔を赤らめて硬直し、ルキナも同様に赤い顔で弟の襟元を掴みがくがくと揺さぶった。
爆弾発言を放り投げたマークだけは涼しい顔で、女性とはいえ剣士として鍛えている力のまま手加減なしで揺さぶってくる姉をまあまあと宥めている。
「いやーだってこの時代の僕が生まれなかったら困るじゃないですか。父さんと母さんには仲良くしてもらわないと」
「そうは言いますけど……!」
「ルキナさんだって、元いた未来より歴史が早く進んでるって言ってましたよね。ということは僕の生まれる未来が変わってしまう可能性もある訳ですよ」
「それは、そうですが……」
「ルキナさんは弟の僕が消えてしまってもいいんですか……?」
まさに、ああ言えばこう言う。
軍師を目指しているだけあって口の上手い弟に、首を絞める勢いだったルキナも呑まれて、掴みかかった両手を離してしまった。
しかもマークは自分より僅かに背の低い姉を見下ろすその目に、ご丁寧に涙まで溜めている。
勿論嘘泣きだったが、基本的には人を疑わずに育ってきたルキナは弟の涙ながらの訴えにあっさり騙された。
「……分かりました、マーク。これも可愛い弟であるあなたのためです! 私がお父様をお呼びしてきますから、お母様をお願いします」
「わあ、さすがルキナさん!」
間違った使命感に燃えるルキナは、そのままルフレを置いてきびきびとした足取りで天幕を出ていってしまう。愛娘が将来悪い男に騙されないか、非常に心配になったルフレだった。
「さあ母さん。行きますよ」
がしりと腕を取られて、我に返る。
悪戯が成功した時のような笑顔でマークがこちらを促した。
「あ、あのマーク。行くってまさか……」
「勿論父さんの天幕です!」
「さっきの話本当に本当なんですか?」
「本当の本当ですよ。嫌だなー母さん、僕冗談であんなこと言いませんって」
「私としては冗談であって欲しかったです……」
未だ子供とはいえ、やはり男。思った以上に力強く引き摺られて行きながら、ルフレは深々と溜息を吐いた。
***
お母様ならお父様の天幕でお待ちですよ、と。
いつの間にか宴の会場から消えていた妻の姿を探し求めていたクロムが、娘のルキナからそう教えられたのがつい先刻。
いくら夫婦と言ってもけじめは必要ですと、天幕を分けることを強固に主張していたルフレが何故自分の天幕に、と思わないでもなかったが、ルキナはお渡ししたいものがあるそうです、とだけしか言わず。
首を捻りながら、クロムは入り口の布をまくって中に入った。
「ルフレ、いるのか?」
声を掛けても応答はない。ただ、天幕内は角灯の光でほのかに照らされていた。宴に向かう前に灯りの始末はしたから、誰かがいることは間違いないらしい。
そもそも娘がわざわざ伝えに来たのだから、いないという可能性はないはずだ。そう思って気配を探れば、角灯で照らされていても夜が深まったことで薄暗い天幕内には、人の気配が感じられた。
それを辿って入り口からはすぐに視界に入らない、寝台の設えられた方へ足を向けると、果たしてルフレはそこにいた。
手元には何故か薄桃色のリボンを持っていて、所在なさげにいじっていたが、クロムと目が合うと気まずそうに俯いてしまう。心なしかその頬が赤いように見え、大股で彼女へと近付いて隣に腰を下ろし、両の手で彼女の顔を包み込んだ。
「どうした? いるならいると返事くらいしてくれ」
「……すみません、クロムさん」
「まあそれはいいが……。熱でもあるのか? 少し顔が赤いぞ」
大丈夫です、とか細い声で返されたがこういう時のルフレは信用ならないと、過去の経験から知っている。
人の無茶は諌めるくせに、自分は平気な顔で無理を重ねるのだ。今日の宴は彼女の発案だと聞いた。軍師として忙しくしているところに宴の準備も加わって、疲れが出たのではないだろうか。
ルフレの前髪をかき上げて額に手を当ててみたが、伝わってくるのは強いて言えばやや温かいか、くらいの温度で、高熱が出ているというわけではなさそうだった。
軍医を呼ぶべきか悩んでいると、ルフレは居心地悪そうにクロムから距離を取ろうとする。
「……本当に大丈夫ですから。そ、それより……ですね。ルキナから……そのう、何か聞いていますか?」
「ああ。お前が、俺に渡すものがあるとか何とか。それで俺の天幕で待っているから、と言われて来たんだが……」
クロムとしては、自分の誕生日を祝うために何かしたい、とルフレが思ってくれただけで満足だった。だが正直なところ、渡したいものがある、とルキナを通して聞かされ期待したことは確かである。
ただ、贈り物よりルフレの身体が何より大切だ。具合が悪いのなら……と思ったものの、それにしてはクロムの答えを聞いた妻の反応が妙だ。
「ええっと……そう、ですね……。渡したいものというか、何というか……」
今度は心なしかどころでなく、熟れた林檎のように真っ赤になってルフレは口ごもってしまう。
それでようやく、どうも照れているらしいと気付いた。
イーリスを出立してから冷静な軍師としての顔しか見せなかった妻の、まるで恋人時代に戻ったような愛らしさにクロムは思わず頬が緩むのを感じた。
「そういう反応をされると気になるな。俺に何をくれるつもりなんだ?」
もう一度華奢な身体を引き寄せて、こつんと自らの額を彼女のそれに押し当てる。間近な距離で絡んだ視線で強く促せば、ルフレは観念したようにぽつりと呟いた。
「………………わ、……です……」
「ん? 何だって?」
「わ、私です……っ!」
しん、と辺りに静寂が落ちる。クロムが聞き間違いか、何か隠された意味があるのか、はたまた……と妻の発言をどう解釈したものか迷い、反応できないでいると、ルフレは赤面したまましどろもどろに言葉を紡ぎ始める。
「そ、その……。私、クロムさんへの贈り物を用意しないでしまって。それでマークが……じ、自分のことをあなたに贈ればいい、って……」
今度は、クロムが赤面する番だった。
(マークの奴……)
天幕まで戻る途中ですれ違った息子に、にこやかな笑顔全開で「頑張って下さいね!」と励まされたのは記憶に新しい。
その時は何のことかと思ったがようやく合点がいった。
「私はそんなことできませんって言ったんですけど……ふ、二人が……」
「そ、そうか……」
結婚して二年以上経ち子まで成したクロムとルフレだが、正面切ってそういった話題になると途端にこの様子になってしまう。
妹のリズ曰く、「いつまでも新婚気分が抜けていないんだよ!」ということらしい。
「……ルフレ」
「ひゃっ?!」
独身の兵士が目にしたなら、思わず独り者の我が身を儚みかねない甘ったるい空気を打ち破ったのはクロムの方だった。
一度顔を離して体勢を変え、啄むような触れるだけの口付けをひとつ。
それだけでもびくりと大きく身体を震わせる妻に、まるで俺が襲ってるみたいだなと内心クロムは苦笑する。
「大丈夫だ、何もしない」
「え……?」
「ん? なんだ、して欲しいのか?」
「い、いいえ! そんなことぜんぜん! これっぽっちもありませんからっ」
「そこまで力一杯否定されるとさすがに俺も傷つくんだが……」
顔を顰め、隣に座ったルフレの身体を抱えて膝の上に乗せる。そのまま彼女の柔らかい髪に顔を埋めた。
「く、クロムさんっ?!」
「あまり暴れるなよ。落ちるぞ」
「で、ですけど……!」
後ろから抱き抱える形になり、ルフレの顔はあまり見えない。
だが朱に染まったうなじからして、先ほど以上に真っ赤にしているのだろうと思うと何やら可笑しかった。
「だから何もしないと言ってるだろう」
「もう既に何かしてますっ」
可愛らしい抗議の声を無視し、鼻先で長い髪を掻き分け彼女の甘い香りを思う存分吸い込む。
(そういえば、こんな風にルフレに触れるのも久し振りだな……)
城を出てからは、話すことといえば行軍の進路はどうするかだとか、軍の編成はどうだとか、そんな話ばかりで。
他の者に示しがつかないからと休む天幕も別々、二人きりの甘い時間など皆無だった。
帝国軍が迫る現状を思えば仕方ないことだが、自分の誕生日くらい好きに過ごしてもいいだろう。
そう考えると、これもマークなりの気遣いなのかもしれなかった。
……どこまで冗談なのか本気なのかは分からないが。
「もうっ、クロムさん!」
久々に感じるルフレのにおいを堪能しているクロムに抱きすくめられたまま、ルフレはまだ諦めず、身を捩ってしっかりと回された腕を解こうとしている。
気恥ずかしいのだろうが、却ってその行為がクロムを煽るとは考えないのだろうか。
「なあ、ルフレ。そろそろ大人しくしないと……本気で襲うぞ?」
「……っぁ……」
閨での睦言のようにわざと低く囁いて耳朶を甘く噛む。
それだけでルフレは魔法にかかったようにぴたりと動かなくなった。分かりやす過ぎる。
「今日は俺の誕生日だろう? だからしばらくこのままでいさせてくれ。お前からの贈り物はそれでいい」
「そんなことでいいんですか?」
「俺にとっては重大だぞ? ここしばらく、お前と二人だけでいられる時間がなかったからな……。あいつらもそのつもりだったんじゃないか? 気を遣ってくれたんだろう。少し、ふざけすぎだが」
「そ、そうですね……」
そうしてようやくルフレの身体から力が抜けた。
身を預けてくる彼女の温かな体温。すっぽり抱き込んでしまえる華奢な肢体。
そのすべてを全身で感じながら、ああ幸せだなとふいに思った。
「……クロムさん」
「どうした?」
「……大好きです。来年もその次もずっと、あなたの誕生日を祝わせて下さいね」
次は絶対とびきりの物を用意しておきますから、と。
はにかみながら小さな声で告げる妻にクロムも笑って、その耳元に愛の言葉をそっと返した。クロム誕生日話。クロムへの贈り物を忘れてしまったルフレにマークがしたアドバイスは……?
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