別大陸にあるという一風変わった文化を持つ国、ソンシンには『風が吹けば桶屋が儲かる』という喩え話があるらしい。どういう経緯でそのような結末になるのかは分からないが、その日、イーリス軍内で巻き起こった騒動と似ていると言えば似ている。
すなわち、一見まったく因果関係がなさそうな出来事にも、解き明かしてみれば繋がりがあるのだ。
そして、その日の出来事を端的に言い表せば、軍主が物を壊すと軍師が泣く、ということになる。
***
常の凛々しさからは想像もできない、幼い子供のように弱々しい泣き声が辺りに響いている。
泣いている女性は苦手だ。どうしたらよいか分からず困ってしまう。小さい頃、両親を恋しがって泣きじゃくるリズを泣き止ませるのも大分苦労した。
まして、今目の前で大粒の涙を零しているのが自分の軍師、ルフレであればなおさらだ。それが何故なのか、明確な答えをクロムはまだ持てずにいるのだが。
「……ひっく…ひっく……っ」
「あー……その、だな。ルフレ?」
しゃくり上げる相棒を前に、クロムはがしがしと自分の髪をかき回した。彼女を宥める言葉のひとつでもひねり出せないかと思ったのである。しかし妙案は一向に浮かばず、ぼそぼそとルフレの名を呼ぶだけになってしまった。
反応は、ない。返ってくるのは相変わらず、しくしくという彼女の嗚咽のみ。
記憶がなく、自分がどこから来たのかさえ知らぬルフレは、けれどいつも気丈に振る舞って、過去がないがゆえの不安や泣き言を語ることはあまりなかった。涙を見せるなど、ないに等しい。
だというのに、そんな彼女を、クロムは幼い子供に戻ってしまったように泣かせている。それが非常にいたたまれず、がばりと勢い良く頭を下げた。
「本当に、本当に俺が悪かった! 謝る! 謝るから、頼む。泣き止んでくれ!」
*
それは幾つかの事象が重なった、不幸な偶然の結果だった。
クロムは、近頃悩まされている奇妙な苛立ちを解消しようと、愛剣で一心不乱に素振りをしていた。
素振り自体は、いい。問題はそれを行っていた場所である。近くには、設置中だった天幕が有り。クロムの剣は、天幕を支える支柱の内のひとつを、ものの見事に真っ二つにしてしまったのだ。
「しまった……またルフレやフレデリクに怒られるぞ……ん? ま、まずい!」
周囲が無人であれば、被害は天幕ひとつで済んだのかもしれない。しかし、である。
崩れ落ちた天幕は、ちょうど通りかかったミリエルに襲いかかった。彼女も避けようとしたのだが、元々後方支援が専門の魔道士であり、反射神経はあまりよろしくない。体勢を崩しよろめいたところを、彼女から言い渡されていた陣地内50周を終えたソールが慌てて駆け寄り支えた。
「ミリエル、危ない……っ!」
だがソールも疲労困憊していた。ゆえに自分の力だけでミリエルを支えきれず、手近にあったものに掴まろうとした。
災難なことに、彼が掴んだのは洗濯物を干しているロープの端。当然、人間二人分の体重を支えられる強度はなく、ロープが括りつけたあった木の柱ごと地面に倒れ込む。
そして災難はそれだけでは終わらなかった。
「ふんふふーん~。やっと乗馬姿も様になってきたかなあ。これでマリアベルも僕のことちょっとは格好いいって思ってくれるかも? って、わ、わわわ!」
ダークナイトへの昇格に備え、乗馬の練習をしていたリヒトの乗る馬の鼻先に、飛んできた洗濯物が張り付き。突如塞がれた視界に混乱し、暴れ出した馬が陣中をがむしゃらに走り出す。
幾人かの兵を跳ね飛ばした馬は、生クリームが山と載せられた、大半の人間が見ただけで胸焼けがしてしまうであろうケーキを両手にひとつづつ載せてうきうきと歩くガイアに突進。持ち前の身軽さで暴れ馬はやり過ごしたが、悲しいかな、ケーキは彼の手を離れてしまった。
「聖都で並ぶ者なしの伝説の職人、ヴィルヘルムの一日三台限定のケーキが……っ!!」
この世の終わりのような叫びを上げるガイア。たまたま中空で弧を描くケーキの軌跡上にはスミアがおり、ガイアの叫びを聞いた彼女は見事ケーキを二つとも捕らえたかに思えた――――のだが。
「ふう……危なかったです……え? きゃあっ?!」
一歩後ろに下がったその場所に落ちていた洗濯物で足を滑らせ、スミアは顔面から地面と激突した。
当然、ケーキは再び宙を舞う。
「クロムさん、どちらにいらっしゃるんでしょう……。あ、べ、別にドレス姿を見て欲しいですとか、そういったことではないですけど、新しい職に変わりましたって報告するのは別におかしなことではないですよね。うん、そうです。別に他意はな……っ!!」
……べしゃり、と。甘党盗賊の腹の中に収まる筈だったケーキは、何の因果か異界で手に入れた、一風変わった昇格の道具で『花嫁』になったイーリス軍の軍師ルフレの、純白のドレスを生クリームまみれにすることとなった。
ドレスとヴェールにケーキが激突した後、しばらくは何が起きたのか分からず呆然としていたルフレだったが、自分の身に降りかかった惨状を理解するや、たちまち泣きじゃくり始めた。
普段の彼女からは、とうてい想像がつかない狼狽ぶりである。
事態を重く見たリズやフレデリクによって、さして時間がかからず騒動の原因、というか大元が突き止められ。
……そして、物語は冒頭に戻る。
*
「ぐす……っ。ひ、ひどい…す。せっかく、わたし……せっかく…ひっく」
「本当にすまん……わざとじゃ、ないんだ」
「わ、わざとだ…ら…ぐすっ……くろむさんのこと、き、きらいになりますっ」
きらい。
ルフレが口にしたたった一言に、クロムの胸は斬り付けられたようにずきりと痛みを訴えた。あまりに強すぎる痛みを訝しく思いながらも、どうにかルフレの涙を止められないかと考える。服も早く替えてやらないと、このままでは可哀想だ。
と、その時、涙と混じり合って溶け始めた生クリームが気になるのか、ルフレが頬に纏わり付いたクリームを手で拭い取り、そのまま口元へ持って行って舌で舐め取る。
ちらりと覗く赤い小さな舌。……何ということはない筈のその仕草に。クロムの中で、何かが疼いた。
「……っ」
ごくり、と無意識に喉が鳴る。幸い、泣き続けるルフレには聞こえなかったようだ。彼女を落ち着かせる為に、と手近な天幕内に二人きりでいる状況が、やけに強く意識された。
ふんだんにレース飾りとフリルが使われた、穢れのない真白いドレスは、花嫁のものに相応しく、清楚で可憐だ。腰の辺りは括れを強調するように同色のリボンが結ばれていて、腰から足もとまで垂れている。ふんわりと広がるスカート部分は、薄布を何枚も重ねた作り。花びらのようだ。
今はくしゃくしゃになって床に落ちてしまっているが、繊細な薔薇の刺繍が施されたヴェールも、着る者の清らかさを引き立てるだろう。
……そう、背面などのごく一部を除き、白いものでべとべとになっていなければ。
クリームと涙でぐちゃぐちゃになったルフレの顔は、感情が高ぶっている所為かうっすら上気している。潤んだ瞳と、髪まで白いものに汚されている光景は、何か淫らがましい思いを、クロムに呼び起こしつつあった。
(……待て。待て待て待て! な、何を考えてるんだ俺は……?! 今ルフレが泣いているのは、元を正せば俺の所為なんだぞ? それなのに相棒相手にいかがわしい気持ちになるなんてどうかしている!)
周囲のほとんどの人間が、イーリスの王族にして自警団団長の遅すぎる思春期を、ある者は微笑ましく見守り、ある者は呆れ半分で傍観し、ある者は始めから叶わぬ想いだったのだと涙を呑んだのだが。
肝心のクロムの意識下では、未だにルフレは良き『相棒』であり、性差を超えた『親友』であった。
その彼女に対し、ほんの僅かでも淫らな夢想をしてしまったことは、ルフレへの裏切りにほかならない。
意気消沈しかけたクロムは、無理矢理この紛らわしい、白いものが悪いのだと強引に責任転嫁をし意識を切り替えた。フレデリクにいつも持たされている手巾を取り出し、ごしごしとルフレの顔と、髪を拭ってやる。それから、ドレスも。
「ひっく……くろむ、さん……?」
足元跪いてスカート部分もどうにか綺麗にしようと苦心していると、ルフレがおずおずとクロムの名を呼んだ。まだ涙声だが、落ち着いては来たらしい。
幾重にも重ねられたスカート部分のクリームは、そう簡単には落ちそうになかった。いったん諦めて、立ち上がる。顔の部分が綺麗になった為か、いくらか平常心で向き合うことができた。くしゃくしゃと、汚れの取れた髪を掻き回す。
「……せっかくの新しい衣装を汚してしまって悪かった。詫びにはならんかもしれないが、いつかお前が結婚する時は、このドレスよりうんと気に入るやつを着せてやる。だからもう許してくれ。お前に泣かれるのは……敵わん」
「ドレス……くろむさんが、着せてくれるんですか……?」
「ああ。このドレスも似合うが、国中の、いや、国外からだって仕立て職人をかき集めて、ずっと似合うやつを作らせる。男に二言はない。絶対だ」
今のドレスを似合うと言ったことか。遠い『いつか』の約束をしたことか。何が原因かは分からないが、クロムが顔を赤らめながらもきっぱりと断言したことで、ルフレは「はい……やくそくです、くろむさん」と今日初めて、彼にだけ見せてくれる、あの、すべてを委ねるような安心しきった笑みを見せてくれたのだった。
この時のクロムの約束が、まるで求婚の台詞のようだと、後に新たな騒動が巻き起こったのは別の話。
そして、このさらにずっと後、王城では、聖王代理妃となったルフレに、クロムが婚礼の儀で着用したドレスとは違う花嫁衣装を贈ったという噂がまことしやかに流れた。
だが人々がからかい混じりに尋ねても、クロムはとぼけ、ルフレは完熟した林檎よりも顔を赤らめて口ごもり。
結局、当事者たる二人が口を割らなかったので、明らかに『何か』があったのだという認識だけが周囲の人々に残された。
それもまた、別の話である。
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